六百人もの奴隷を二束三文で手に入れた。
筋肉は堅く張っている。まるで飛び切りの鋳物だ。
代わりにこちらからやったのはブランデー、ガラス玉、金物だ。
あいつらの半分が生き残れば、それで儲けは八倍さ。
「奴隷船」 ハインリッヒ・ハイネ詩集 井上正蔵・訳 角川書店
「船に乗せられる時、何としても行くまいと砂浜にへばりついた。
船が動き出すと、一斉に『バガモヨ! バガモヨ!』と泣き叫んだという。
バガモヨというのは、心をここに残すという意味じゃが、
今は港町の名前になってしもうた」とムティソ祖父は言った。
「沈まぬ太陽 (アフリカ篇)」 山崎豊子・著 新潮社
「奴隷の少女の物語」その1 THE STORY OF THE SLAVE GIRL
①タンザニアがタンガニーカと呼ばれていた頃、国の西南部の村で幸せに暮らしていた家族は、
②狩猟をしていた父親がライオンに襲われて亡くなり、③母と少女はやむなく北部の村に行き、
④農業の仕事をするようになりました。⑤地主が「お前たち、二人も働かすことはできない」と
言って、⑥少女は白い服を着たアラブ人に売られました。⑦アラブ人は少女たちを手荒く扱い、
鎖で繋いだまま、東へ東へと連れて行き、⑧バガモヨという港で少女たちを船に乗せました。
「奴隷の少女の物語」その2 THE STORY OF THE SLAVE GIRL
⑨船に乗せられた少女たちは、アラブ人にザンジバル島に連れて行かれました。⑩その島では
アラブ人たちと英国軍が戦争をしていました。⑪戦渦に巻き込まれた少女は負傷しましたが、
⑫病院での手厚い看護で元気になり、⑬英国人の宣教師に教わり、⑭敬虔なキリスト教信者と
なり、傷ついた人たちを助けてあげたいと考えるようになりました。⑮その頃、あの白い服を
着たアラブ人は英国軍の戦艦に攻撃され、瀕死の重傷を負いました。⑯ザンジバル島の病院に
運ばれてきたアラブ人を見て、看護婦になっていた少女は「あの憎い人!」と思いましたが、
⑰忌まわしい過去を捨て、困っている人々を救ってあげようと考えるようになっていました。
* 上記の物語は博物館の館員の口頭説明を綴ったものですが、エドワード・オルパーズが
書いた「The Story of Swema」(スウェマは少女の名前)によると、その後、少女は現
在のモーリシャスのレユニオン島に行き、シスターとして生涯を過ごしたとあります。
キリマンジャロからダルエスサラームに帰った翌日のことでした。
ご多忙なワンブラご夫妻が奴隷積み出し港として有名なバガモヨに連れて行ってくれました。
上掲の「奴隷の少女の物語」はバガモヨの博物館に掲示してあったものである。
15世紀から19世紀にかけてアメリカに運ばれたアフリカ人奴隷は1500〜2000万人と言われる。
非人道的な奴隷狩りを行い、航海中に死んだ奴隷を海に投げ捨てたり、凄まじい虐待が続いた。
やがて世界各国から批判が生じ、アメリカで奴隷解放が宣言されたのは、1865年のことである。
タンザニアでは大部分の奴隷が、ここ、バガモヨの港から積み出されました。「バガモヨ」とは「我が魂ここに残す」という意味である。連れ去られた人々の気持ちがそのまま地名になって
いるのである。こんなにインパクトのある地名は世界中さがしたって、そんなにないだろう。
「死んだら、わしの魂は必ずアフリカに帰る」
奴隷として連れてこられた長老がジョゼ少年に語った言葉。
フランス映画『マルチニックの少年』('84)
周辺の民家は風通しのいい造りになっているが、この鉄格子のある窓は何だ。この小さな部屋に何十人もの奴隷が詰め込まれ、ほとんど立ったまま何日も港に船が来るのを待たされていたのだ。
この白い壁の記念館には英語で「THE CARAVAN SERAI(巡礼者の宿舎)」と書いてある。タンガニーカ湖近くの奥地から象牙などを運ぶ運搬人をキャラバン・ポーターと呼んでいたのだが、奴隷たちを運ぶことと象牙の運搬を同一に行うようになり、このような呼称になったのだろう。
上記「奴隷の少女の物語」の⑦の絵の右端の奴隷の頭の上にあるのは象牙である。
CARAVAN SERAI…サンタナのラテン名曲のタイトルと同じじゃないか。
【LOG in BLOG】05.4.23
尼崎JR脱線事故以来、「快速電車に乗れない症候群」がはびこっていますが、こんなにゆったりとした電車だってあるのだと言っているような京都洛北、叡山電鉄鞍馬線をご紹介します。
プラットホームの上にウッディな駅舎、無人の二ノ瀬駅で下車。ここから貴船山に向かった。
駅を出た所で素朴な看板に出会った。「緑や海を…」メッセージが標語的でないのがいい。
森をかき分けるようにして電車が走ってきた。都会の電車のようにイソイソとしていない。
帰りは緑の山々に囲まれた鞍馬駅から電車に乗った。NHK大河ドラマ「義経」の舞台、新緑を求めて大勢の観光客で賑わっていた。JR脱線事故の2日前の土曜日のことである。