「この宝物が欲しいなら持って行くがよい」と預言者は言いました。
欲張りで不信心な男が宝物を担ぐとズブズブと土の中に沈んでいき、
最後には全身が宝物と一緒に土の中に埋まってしまったのでした。
男はとうとう、イスラム教徒にはなれませんでした。
タンザニアのむかし話「預言者スレイマン」 宮本正興・編訳 偕成社
独断と偏見で言わしていただきますと、バガモヨを語るには「三つの柱」があると思います。
ひとつ目の柱は、これまで3回に分けて記しました「奴隷」という忌まわしい歴史である。
二つ目の柱は「芸術」です。バガモヨには「チュオ・チャ・サナ」という東アフリカ全域から生徒が集まる国立のアートスクールがあります。音楽、美術、ダンス、ドラマ、アクロバットなどを学ぶ3年制のカレッジである。日本人にも入学や体験学習の道が開かれています。
この学校を訪問しなかったのが何とも残念至極なのであるが、その不行き届きをカバーする意味
で
JATAtoursの
根本利通さんが書かれた一文を推します。このカレッジの創立に参画した偉大なミュージシャンであり、バガモヨをこよなく愛したザウォセ氏を紹介しておられます。
さて、三つ目の柱は奴隷積み出し港としての歴史から更に遡った時代の、アラブ風の都市国家「カオレ遺跡」である。現在のバガモヨの市街地よりも5kmほど南にはずれた所にある。
人家が少なく、見るからに寂しいところにポツリとある。ガイドブックには「ホテルのスタッフにでも相談して付いて来てもらった方がよい。治安が悪く、注意が必要」と書いてある。
我々はワンブラご夫妻とクルマで行き、一緒に見てまわったのだが、「これでも観光地か」と首をかしげたくなるような寂しさである。日曜日だったが、他の観光客はまったくいなかった。
Kaole RuinsのRuinsを遺跡と言っているのだが、廃墟と訳すべきではないかと思った。モスクや墓が残っているのだが、ほとんど原型をとどめていない。ここから300kmほど南にはミルトンの「失楽園」に登場する「キルワ遺跡」のモスクがあり、こちらは原型をとどめている。
カオレとキルワ。いずれも1200〜1500年頃に栄えた都市なのだが、どのようにしてアラブ人がこんな所に来ることができたのかについては、季節風について調べてみる必要がある。
「アフリカの東海岸では11月から4月までは北東の風が吹き、
5月から10月までは南西の風が吹いている。
これがモンスーンと呼ばれるインド洋の交易風で、
古来この風に乗ってダウ船はやって来て、去って行くのである。」
『東アフリカ歴史紀行』 高橋英彦・著 日本放送出版協会
風に吹かれてダウ船でやって来て、理想郷を築こうとしたイスラム教徒たちの心境を想ったら…
突然、義経びいきだった芭蕉の句が浮かんだ。 夏草や つわものどもが 夢のあと
【LOG in BLOG】05.5.28
ここは明石海峡大橋のたもと。この人たちは何をしていると思いますか。
場所はJR朝霧駅南側の大蔵海岸。ご存じの通り、2001年7月21日の花火大会の日に11人が犠牲になった歩道橋事故、同じ年12月30日に女児が犠牲になった砂浜陥没事故。以来、このように金網を張って砂浜には人が入って行けないようにしてあるのですが…
3年半ほどの間に、すっかり砂浜が「野鳥の楽園」になったのです。
望遠レンズで撮影していた方に聞いたら、今、カモメ科のコアジサシという鳥の産卵期とのこと。左手前の鳥も右端の鳥も砂浜に穴を掘って雛を育てているところらしい。親鳥は西向きに座るのが特徴とのこと。今年夏にはこの金網を取り払う予定になっていますが、金網を残して「野鳥の楽園」のままにしてやらないと鳥たちがかわいそうとの声も多いらしい。