インド洋の大陸側に沈む太陽は、海の母神に抱かれた赤子のように、無垢で、美しい。
白いサンゴ礁がライトブルーの海に映え、緑に覆われた島とコントラストをつくる。
誰もが「世界でもっとも美しい島」と認めるに違いない。
しかし、その美しさはしばしば過去の醜さを背後に隠してしまうのだ。
「ザンジバルの娘子軍(からゆきさん)」 白石顕二・著 冬樹社 1981年刊
冒頭の著名の「からゆきさん」という言葉は、我々の場合、山崎朋子の代表作「サンダカン八番娼館」で知った。それを映画化した「サンダカン八番娼館望郷」はボルネオでの元娼婦で天草に帰っても貧しい暮らしをしている老女(田中絹代)と幸せな女性史研究家(栗原小巻)の人物コントラストが鮮やかで、日本映画史に残る傑作だろう。熊井啓監督の'74年の作である。
さて、からゆきさん。東南アジアだけでの話しかと思いきや、アフリカにも進出していたのである。上記の「ザンジバルの娘子軍」によると、ケープタウン(南アフリカ)に3人、ベイラ(モザンビーク)に3人、モンバサ(ケニア)に5人、そして、ザンジバルには10人ほどいたという。
当時、アフリカにいた日本人は50人弱だったのだから、からゆきさんの占める数字がいかに大きいか。明治生まれの女性たちが見知らぬ異郷に夢を託していた姿がうかがえる。
ここ、ストーンタウンが最も栄えていたのは1920年代なのだが、からゆきさんが最も活躍したのも、この時期なのである。ストーンタウンには5つのバーがあり、彼女たちが情熱をたぎらせていた「ジャパニーズ・バー」がいちばん人気があったという。それ以外にイングリッシュ・バー、フレンチ・バー、そして、ザンジバル人の経営するバーが2つがあったらしい。
ジャパニーズ・バーでの中心人物である「おまきさん」をこの著書は浮かびあがらせているのだが、バー経営が順調だったのは10年間ほどで、他の女性は現地人と結婚したり、帰国している。
ザンジバルに残ったおまきさんは寂しく孤独な晩年をおくっているのである。
でも、バーを閉鎖した直後のおまきさんは、日本船相手のシップ・チャンドラー(雑貨調達業者)として活躍している。彼女の堪能なスワヒリ語とザンジバルの物資の豊富さが生きたのである。
おまきさんは1959年、69歳の時、体調が良くないことを心配した周囲の人たちのご厚意で帰国している。ザンジバルから日本までは約1万kmの船旅。神戸港に着いた後、すぐにシップ・チャンドラーとしてお世話になった企業に挨拶に行った後、生まれ故郷、茨城県に帰っている。
現在使われている旅行ガイドブックにも「ジャパニーズ・バー跡」が表示してあるものもあるのだが、実際には何も残っていない。バーが存在した場所と目と鼻の先のChavda Hotelに我々は2泊したのだが、ホテルの経営者でさえジャパニーズ・バーのことは知らなかった。
白石顕二氏の著書はおまきさん伝説が消えかけている時にその足跡をたどった労作である。
おまきさんは1890年(明治23年)生まれ。明治女の気概を感じた。
【LOG in BLOG】05.8.1
前回に引き続き、リンクの話しです。
「佐野由美さんのホームページ」からお申し出があり、こちらも喜んで承諾したところです。
佐野由美さんについては、今や世界的に注目を浴びているドキュメンタリー映画「with」があり、著書や画集が数冊あり、HPも今回で3つ目(?)なので、ご存じの方も多いことでしょう。
我々は23歳で夭折した彼女から何と多くのものを学んだことでしょう…とだけ言っておきます。
今回は由美さんの母親、佐野京子さんについて少し書かしていただきます。
昨年8月上旬、我々がアフリカに出発する1カ月前でした。神戸市長田区に住んでいる京子さんは須磨区の我が家を訪れてくださり、美枝子と3時間ほどおしゃべりしました。由美さんに関するイベントの話しなどが多かったのですが、帰り際に「アフリカに行ってもインターネットで連絡してね」と言われたので、「さあ、さあ、どうしたら、いいのだろう」となったわけです。
早速、Webに強い友人たちに相談したところ、「ブログをやってみなさい」と言われました。
ほとんど毎日、則二はパソコンに向かっている“老人オタク”ですが、Webとは無縁だったし、「ブログ」という言葉さえ知らなかったのだから、その後、結構、苦労しました。
ま、そんなことで始まったブログで、京子さんのお言葉がキッカケとなっているのですが、今も情報提供など大切な協力者でもあります。もともとは、由美さんと我が家の麻琴という娘が同じ画塾で絵を描いていたという関係なのですが、佐野京子さま、今後ともよろしく。
新しいHPと、すでに開いておられるHPと合わせて、3つのHPを左の欄と下に表示します。
「佐野由美さんのホームページ」
佐野由美オフィシャルサイト ドキュメンタリー映画「with …」のHP