「マコンデ神話」
むかしむかし、荒れ果てた土地に、ひとりの男が寂しそうに住んでいました。
ある日、この男は黒檀の塊を拾ってきて、ナイフを使って人物像を彫りました。
すると、翌朝、その像は女になっていました。やがて男はその女と結婚しました。
二人はマコンデという名の高原に移り住み、赤ちゃんが生まれました。
その赤ちゃんがすくすくと育ち、最初のマコンデ族となったとのことです。
マコンデ族はアフリカ中央部からインド洋岸に移動してきた民族と言われている。
アフリカ中央部というのが、伝統的に彫刻が盛んで、各民族が競うようにして木彫りをする
コンゴ民主共和国(旧ザイール)であるかどうかは特定できないが、その辺りから移住してきている。
そして、最初はインド洋岸に住んでいたのだが、猛獣や蛇、マラリアを媒介するハマダラ蚊に脅かされたために、モザンビークとの国境近くの海抜500〜800mのマコンデ高原に移ったのだ。
冒頭の「マコンデ神話」は200〜300年前のこと。そんなに古い話しじゃないと言われている。
ま、そんなことで、民族として誕生するとほぼ同時に、黒檀を彫っていたのだろう。
黒檀は硬くて、重量感があり、彫るのにかなり手間がかかるようだ。
ここでの彫刻は神聖視され、宗教儀式用として作られていた。現在、象やキリンを彫ったものが
多いのだが、マコンデ高原にはそのような動物はいないため、近年になってからのものである。
現在のマコンデ族の人口は約50万人なのだが、彫り師はダルエスサラームに集まっている。
ダルエスサラームは
「天然の良港」と言われていて、海に面して市街地が形成されている。
我々がステイしていたダルエスサラーム大学は逆にその奥まった所で、小高い山の上であった。街全体を見下ろせてるのだが、市街地には約10km。
ダラダラを乗り継いで小1時間を要した。
でも、幸いにも、マコンデ村には歩いてでも行けるような距離だったのだ。
商店街もあるムウェンゲから少し離れた場所、簡素な住宅街の中にポツンと村があった。
マコンデ村はマコンデをつくる場所というよりも、売る場所のような気がする。
黙々とマコンデを彫っている人もいるのだが、それを売る人の方が多かった。
このような店が、多分、100店ぐらいはあると思う。我々の顔を見ると彼らは…
「こんにちは」とか「安くするよ」といったような日本語で呼び込みをする。
その凄さに最初は圧倒されたが、何度か行くうちに慣れてくる。
これは本来のマコンデ彫刻ではないのだが、我々の気持ちをもっとも捕らえたのは、この木彫りの箱であった。中に人も入れるような大きさの、ほとんど、タンスのような収納家具である。
マコンデ村には、このような家具専門店も何軒かあるのだ。
彫りを見せることに主体があり、使い勝手がいいものではないのはわかっていたが、このような物を生活のそばに置くことに価値を感じた。でも、思ったよりも運賃が高くつくことがわかり、涙ながらも購入することをあきらめた。この次、タンザニアに行ったら、絶対、買うぞ!
マコンデ彫刻をもっとたくさんご覧になりたい方は
こちらへ。
【LOG in BLOG】06.1.17
阪神大震災11年目の「1.17」を迎えた。民間追悼行事は昨年よりも4割減とあり、マスコミは「風化」という言葉を使っているが本当なのか…そんな想いで三宮駅南側の東遊園地に向かった。
太い竹筒が並べられ、ロウソクが灯されている。暗くて寒い夜だが、大勢の人が集まっていた。テレビ各局が横並びになり、明々とした照明ランプの下でニュース番組を放送している。「例年と変わらないじゃないか」とホッとしていたら、ひとつ、昨年まではなかったサプライズが…
東遊園地の片隅に、四面を木彫で囲った灯籠を100点ぐらい並べている人がいた。それぞれに手の込んだ図柄で、力作である。立ち止まって見ていたら、中年の男性がそばに来て言った。
「あなたのオリジナルの図柄で灯籠を作りませんか。この紙に絵を描いていただいたら、無料で灯籠に仕上げます。作った灯籠は来年の1月17日に持ってきます。今日、50名に限定してお話しています」と言って、縦長の長方形の図柄を描く用紙をいただいた。用紙にはFAX番号が書いてあったが、お名前はない。FAX番号から三重県の方であることはわかったのだが…
この方は昨年、神戸の誰かに灯籠を依頼されて「50名の方に無料で」というのを思い付いたとのことだった。僕はティンガティンガ風の象やキリンやシマウマを描いてお願いしようと思っているのだが、無料というのが気になる。手土産を持って行ったら受け取ってくれるだろうか。
このように「1.17」に新たに関わろうとしている人もいる。
風化なんて、まだまだ先の話しではないか。