メモ帳
バブミッシェルの闘病記
107.ある発見までの 道のり 108.ある戦場への 旅だち 109.戦士のひとりごと(1) 110.戦士のひとりごと(2) 111.戦士のひとりごと(3) 112.外来でのGEM療法と その一週間 113.玉川温泉に 我が身をゆだねる(1) 114.玉川温泉に 我が身をゆだねる(2) 115.玉川温泉に 我が身をゆだねる(3) 116.玉川温泉に 我が身をゆだねる(4) 117.温暖化何するものぞ! 玉川温泉は雪の中 [プロローグ] 01.アフリカの水 02.アフリカの国々 03.アフリカの少年 04.アフリカの空 05.アフリカへの扉 06.アフリカの風 07.アフリカ象の悲劇 と アルーシャ宣言 と 08.心配な事いろいろ 09.行ってまいります [ケニア篇] 10.ブログの再開に あたって(1) 11.ブログの再開に あたって(2) 12.黄金のアラビアン ナイトから荒野へ 13.ホテルの人びと 14.地方都市ティカの 動と静 15.カレン・ブリクセン 博物館 16.大きな象と小さな象と キリンと 17.投稿者からのお知らせ 18.臨時ニュース 19.キベラから(1) 20.キベラから(2) 21.キベラから(3) 22.キベラから(4) 23.キベラから(5) 24.キベラから(6) 25.キベラから(7) 26.キベラから(8) 27.風に立つライオン 28.キムくん 頑張れ 29.マラリアの話など [タンザニア篇] 30.体験生活始まる 31.ワンブラ家の人びと 32.ワンブラ家の 使用人たち 33.ンゴロンゴロの アニマル紳士録(1) 34.ンゴロンゴロの アニマル紳士録(2) 35.ンゴロンゴロの アニマル紳士録(3) 36.ンゴロンゴロの アニマル紳士録(4) 37.ンゴロンゴロの アニマル紳士録(5) 38.ンゴロンゴロの アニマル紳士録(6) 39.ンゴロンゴロの アニマル紳士録(7) 40.ンゴロンゴロの アニマル紳士録(8) 41.ンゴロンゴロの アニマル紳士録(9) 42.ンゴロンゴロの アニマル紳士録(10) 43.ンゴロンゴロの アニマル紳士録(11) 44.ンゴロンゴロの アニマル紳士録(12) 45.ンゴロンゴロの アニマル紳士録(13) 46.ンゴロンゴロの アニマル紳士録(14) 47.平和の家 48.エキゾチシズム 49.昔のアスカリ、 今のアスカリ 50.家庭料理 51.お風呂と 離乳食のはなし 52.ニエレレ小学校 53.大きな宣伝 小さな芸術 54.踊る結婚式(1) 55.踊る結婚式(2) 56.踊る結婚式(3) 57.踊る結婚式(4) 58.踊る結婚式(5) 59.踊る結婚式(6) 60.踊る結婚式(7) 61.ダラダラという乗り物 62.キリマンジャロの 白い頂き(1) 63.キリマンジャロの 白い頂き(2) 64.キリマンジャロの 白い頂き(3) 65.キリマンジャロの 白い頂き(4) 66.キリマンジャロの 白い頂き(5) 67.キリマンジャロの 白い頂き(6) 68.キリマンジャロの 白い頂き(7) 69.キリマンジャロの 白い頂き(8) 70.キリマンジャロの 白い頂き(9) 71.キリマンジャロの 白い頂き(10) 72.キリマンジャロの 白い頂き(11) 73.キリマンジャロの 白い頂き(12) 74.キリマンジャロの 白い頂き(13) 75.キリマンジャロの 白い頂き(14) 76.キリマンジャロの 白い頂き(15) 77.キリマンジャロの 白い頂き(16) 78.コーヒーのはなし 79.“民族衣装” カンガとキテンゲ 80.バガモヨ 我が魂ここに残す 81.バガモヨ 古い教会が建っていた 82.バガモヨ 悲しい過去からの流転 83.バガモヨ 夢の跡が残った 84.おしゃれ髪型への 長い時間(1) 85.おしゃれ髪型への 長い時間(2) 86.世界で最も美しい島 ザンジバル(1) 87.世界で最も美しい島 ザンジバル(2) 88.世界で最も美しい島 ザンジバル(3) 89.世界で最も美しい島 ザンジバル(4) 90.世界で最も美しい島 ザンジバル(5) 91.世界で最も美しい島 ザンジバル(6) 92.世界で最も美しい島 ザンジバル(7) 93.世界で最も美しい島 ザンジバル(8) 94.世界で最も美しい島 ザンジバル(9) 95.クルマと牛カツの話し 96.売っているもの 売っているひと 97.ティンガティンガと その仲間たちの絵 98.マコンデ彫刻 そこに至るまでの経緯 99.マコンデ彫刻 まっ黒な妖怪たち 100.クンドゥチ・ビーチ 輝く海と空と砂 101.クンドゥチ・ビーチ プールの情景 102.クンドゥチ・ビーチ ホテルほんのり 103.あるキリマンジャロ 登山隊からの報告 104.ミッシェルちゃんへの メッセージ(1) 105.ミッシェルちゃんへの メッセージ(2) 106.この盛りあがりは何だ アフリカンフェスタ06 [ジャパニ番外篇] バブミッシェルの闘病記 107.(1)〜117.(11) [リンク先] Webで堪能できる 七宝焼の世界 土田善太郎の 工房Uncle Z タンザニア旅行なら ここで決まり! JAPAN TANZANIA TOURS LTD. 佐野由美のホームページ オフィシャルサイト ブログの投稿者 米沢則二 米沢美枝子 タグ
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ある戦場への旅だち
7月6日(木) さて、問題の日を迎えた。C病院でいろいろな医師から治療計画を聞く日である。 まずは、初めての消化器外科に行き、H医師に診察を受ける。先週、撮影したCT写真を見ながら「私は外科医として手術が可能かどうかを判断する役割なのですが、この膵頭がんは静脈に浸潤があるので手術は不可能です」と言われる。白い紙にすい臓や静脈を描きながら、わかりやすく説明してくださる。でも、手術不可能という言葉には、一瞬、視界を失う。「G医師は対策をお考えようなので、消化器内科の方に行っていただけますか」との指示を受ける。 消化器内科のG医師は消化器外科での判断を聞いていて、「残念な診察結果ですが、治療方法を失ったわけではありません」と切り出して、放射線治療と抗がん剤治療の併用策について説明を受ける。まずは、放射線治療科で説明を聞いてほしいとのことなので、そちらに向かう。 これまた初めての放射線治療科に行き、I医師に会う。「7月13日より放射線治療を始めたいと思います。そのために、明日、腹部エコーと放射線治療のためのCT撮影をします」と。 この日、最後は消化器内科のG医師に再びお会いして「入院は7月11日です」と言われる。 7月7日(金) 放射線科に行き、可動式のレントゲンの前に寝かされる。技師の方がおへその上、10センチほどのところに青マジックインキで大きな+(プラス)マークを描く。「このあたりが患部なのかな」と思ったら、そうではなかった。+マークを基準にして、どの位置に患部があるかを何度もレントゲンを使って探ってゆくのだ。いかにも職人的な細かい作業が続くのだが、こちらはジッと動かないように横たわっているだけ。体の両脇にも+マークを描き、同じ作業をする。 最後は+マークの上に特殊な透明テープを貼りながら「13日に放射線治療が始まりますが、それまで、このマークを消さないように。お風呂は入ってもいいですが、この部分を擦らないように」と言われる。「汗でテープが剥がれないのですか」「それは、多分、大丈夫です」 7月8日(土) 突然、東京に行く。東京都品川区大井の気功の積明(じゃくみょう)さんにお会いするためである。(積明さんの気功治療については後ほど詳しく書きます。) 夜、品川駅近くのレストランに、息子の康の家族、娘の佳織と麻琴、それに我々と、8人が集合して、壮行会となる。久々に集まったためか、みんな、楽しそうだ。ワイワイ言いながら、酒もすすむ。バブミッシェルもビールを少し飲む。だけど、思ったよりも食が進まなかった。 7月10日(月) ここまで書いてきて、このブログの[17]の「投稿者からのお知らせ」と似ているなと思いました。あの時、キリマンジャロに登るにあたって「人生最後の挑戦」という言葉を使いました。また同じ言葉を使うのも気が引けるのですが、やはり今回も挑戦ではないでしょうか。 明日から入院ですが、そこを戦場と位置づけて戦います。 行ってきます。そして、必ず勝って帰ります。 7月11日(火) 今日から入院するので、C病院のことを少し書いておきます。 1962年、財団法人がんセンターとして開設される。71年、兵庫県立となり、後に名称が「がんセンター」ではなくなるのだが、がん診療を中心とした病院であることは変わりく今日に至っている。ベッド数400床、診療科目17科、1日平均の外来患者数726人の大病院が最寄り駅からも遠く、ちょっと不便な場所に構えているのである。我が家はビビミッシェルが運転するクルマで行き来しているが、バスを乗り継いで来られる患者も多いのである。 今年、某週刊誌の「『がん総合』のいい病院」という特集が話題になった。難易度の高い手術や症例数に応じた傾斜配点をしたものを基数にして、専門医や技師の充実度、看護や設備、そして、ケアサービスの充実度を配点しての評価で、全国から22病院を推奨している。がんセンターもあれば、総合病院もある。地域的には東京が8、その他の関東圏が4、大阪が4、新潟、静岡、愛知、岐阜、兵庫、岡山の各県が1ずつ。兵庫県ではこのC病院が選ばれている。 前日「朝9時30分に入院受付にお越しください」という確認の電話をいただいていた。持って行く書類や日用品は「入院のご案内」というパンフレットに書いてある。行き届いた配慮が入院初体験のバブミッシェルには嬉しい。ビビミッシェルに付き添われて入院受付の前に到着して驚いたのは、この日の入院患者が約30人もいるし、付き添いの方を入れると100人足らずの人びとが集まっている。「みんながん患者なのだ」と思うが、患者と付き添いの方の区別はつきにくい。 入院手続きは職員の対応だったが、病室への案内はボランティアだった。こんな所にも活動の場を見つけている人がいるんだなと思う。C病院は3階から6階までが病室になっているのだが、バブミッシェルは最上階の6階となる。周囲が住宅街や大きな公園なので見晴らしはいい。 この日はレントゲン、心電図、採血、尿検査などを行う。 7月12日(水) 初めての病院のベッドでの就眠から覚めて、「ん、寝られるもんだな」と思う。6時起床。6時半ごろには看護婦さんが体温、脈拍、血圧をはかり、便の状態や体の調子を聞きに来る。 楽しかったのは「痛い所はありませんか」というので、「1カ月半前から、ずっとこのあたりが少し痛い」と言って、おへその周りをさすってみせる。「どのくらい痛いのですか」と言って、目盛りがない物差しのようなものを眼前に差し出す。よく見ると左端に「0」、右端に「10」と書いてある。「10って言うのは、どんな痛さなのですか」と尋ねると「我慢できないぐらいの痛さ」とのお応え。「じゃ、今日は3ぐらい」と言ったら「それならコレを移動させてください」と言われて初めて気づいたのだが、そろばんの玉のようなものが左右にスライドする仕掛けになっている。目盛りがないので適当に動かすと看護婦さんは納得した顔になり、持ってきたノートパソコンに3を入力する。この病院のしきたりを感じさせるアナログっぽさに感心する。バブミッシェルとしては久々の看護婦さんとの…というよりも若い娘さんとの対話が楽しめる。 午後、「カテーテル留置」という、ちょっとした手術を行う。カテーテルとは、抗がん剤の点滴を容易にするために、右肩の鎖骨下の静脈に向けて設置するパイプのこと。これから1ヶ月半の間、土曜と日曜以外は24時間、1日1リットルずつ点滴を続けるので、心臓に近い場所に穴を開けてパイプを埋め込むのだ。場所は首の下、右肩の内側、ワイシャツの右エリのあたりになる。 超音波室のJ技師がエコー検査機を持ち込んで穴を開ける位置を選定して、留置操作には消化器内科のG医師があたる。何度も部分麻酔の注射をしながらなので、思ったよりも痛くない。顔に近い場所なので状況が見えないようになっているのだが、G医師とJ技師の会話は聞こえる。「この人、筋肉が多いね」「この筋肉を避けるためには、この角度かな」などと。「そう、僕、テニスプレーヤーなんだよ」と言いたかったが、我慢する。30分ほどで終わる。 7月13日(木) いよいよ今日から治療が始まる。放射線治療と抗がん剤治療の併用なのだが、いずれも30回施すことになっている。土曜、日曜、祝日は治療を休むので、1カ月半は要することになっている。 今日は抗がん剤治療について書いておきます。「化学療法」という言葉の方が正しいかもしれないが、抗がん剤を点滴する治療なので、ここではわかりやすく抗がん剤治療と言っておく。 抗がん剤は「5FU(ファイブエフユー)」。これを1リットル、24時間がかりで点滴するのである。食事の時や睡眠時も、休むことなく続けるのである。月曜日の朝始まって、土曜日の朝まで、毎朝、新しい溶液の袋と取り替えながら継続するのである。まさに「抗がん剤漬け」の日々である。注入する場所は昨日(7月12日)のカテーテル留置で書いた首の下で、注入のための痛みなどはない。 この5FUという溶液を点滴するための器具があるのだが、皆さんもご覧になったことがあるでしょう。背の高さがバブミッシェルの身長と同じくらいで、足下には5つの車輪が付き、胸の位置に押すためのハンドルがある。顔の位置に溶液を入れた袋がぶら下がっていて、そこから溶液はパイプで下に移動し、腰の位置に「輸液ポンプ」というハイテク機器が設置してある。ここで気泡の混入をチェックしたり、溶液を送る速度と量を管理するのだが、この機器を動作するために100ボルトの交流電源とつながないといけないのだ。 一応、バッテリーが内蔵されているのだが、電源を抜いて15〜20分もすると「ブー」という電力不足の警告ブザーが鳴る。例えば、トイレの場合、小は電源を抜いたままで用を足すことができるが、大の時はコードを持って行ってトイレ内のコンセントに差し込んでいないと安心して座っておれないのである。もちろん、食事の時も電源のある所に座るのである。 ということで、四六時中、こちらが寝ている時もそばに立って働いているパートナーができたのである。この点滴をするための器具なのだが、看護婦さんも「アレが…」とか「点滴するものを…」といった風に名称が定かでないので、こちらで勝手にネーミング募集をすることにした。病院での状況を伝えるために携帯mailに親族一同をグループリストにしてあるので、器具の写真を添えて「我がパートナーに素敵な名前をつけてください」と書いて送信したのである。 こちらの思惑としては、中学2年生の女の子から、点滴をするものだから「点ちゃん」とか「テンテン」と言った可愛い名前が来るかな…などと思っていたのだが、いずれにしろ、最初の提案者が考えたものを採用することに決めていた。ところが、意外な人から、すぐに返信が来た。我が家、みんなから「おっとりでユックリ」とからかわれる娘の佳織からの「ラフィキ(rafiki)」というネーミングである。スワヒリ語で「友だち」という意味である。[105]の冒頭の教科書の絵の中に「marafiki」という語が書いてあるが、これは複数形である。ま、それらしい名前だし、即、携帯mailで「ネーミング決定」の告知を入れた。あまりにも早く決定がくだされたことに驚くだろうと思い、そこには「皆の者、じっくり考えることも重要だけれど、何事につけ『初動』が大切なのだ」と憎まれることを承知の上で訓辞をたれたのである。 7月14日(金) C病院での入院生活に入っての第一印象は、患者が和気あいあいとしていて、マナーが良いことである。6階の東病棟は個室が7室、4人部屋が10室あるので、50人足らずの患者が共同生活をしている。とは言っても、個室には重病人が多いらしく、食事も部屋で食べている人が多く、顔を合わす機会は少ない。でも、4人部屋の者同士はすぐに親しくなる。お互いに年輩者が多いので、なかなかお名前までは覚えられないのだが、「おい」とか「やあ」と言いながら挨拶もするし、情報交換もする。相手のお名前を覚えた頃には退院だったりして、始末が悪い。 バブミッシェルは4人部屋である。1人部屋は一日1万円のホテル並みの部屋代がいるが、4人部屋は無料なのだ。この倍数では表現できない格差は何を意味するものなのか、考えれば考えるほどわからなくなる。医師や看護婦さんのケアが4人部屋は悪くなるということは無いだろうし、4人部屋とはいえ大きなカーテンで仕切られていてプライバシーは十分に守られている。 今日、洗面所で歯磨きをしていたら、隣りに立っている同年輩の男性から話しかけられた。 「初めてお目にかかったように思いますが、あなた、お元気そうですね」 「今週の火曜日に入院して、今、治療が始まったばかりなので、元気に見えるのでしょうね」 「いやぁ、あなたはがん患者に見えない。それに、とてもおしゃれだ」 バブミッシェルとしては「お元気そう」も嬉しかったのだが、「おしゃれだ」には歓喜したのである。早速、携帯mailの親族グループリストに「今、先輩の患者さんから『おしゃれだ』と言われた。ママのお見立てによる甚平を着ていたのだが…」と書いたら、意外な波紋を呼んだ。 ビビミッシェル、つまりママから「あなた、がん以外の病気も患っているの? あの甚平は康の嫁、和江さんからの誕生日プレゼントよ」との連絡。これは大変な事態になったと「前メールで重要なミスがありましたので訂正します」と送信したのだが、すでに遅かった。「パパが着ているものは大体は貰い物なのだから、しっかりチェックしないとダメよ」という声が殺到した。 7月15日(土) 入院して5日目だが、治療は2日間しかしていない。食欲は少し減ったような気がするが、副作用などはない。しかも、今日から3連休。放射線治療はないし、抗がん剤治療は昨日の午前10時にセットした点滴液が、今日の午前10時には終了することになっている。つまり、48時間にわたって共同生活をしてきたラフィキくんと一時的ではあるが、別れて暮らすことになる。 一日に2回は病室に往診してくれる消化器内科のG医師に許可をもらって外泊をすることになる。同室の患者から「えっ、外泊できるの。いいなぁ」とうらやましがられる。皆さん、結構、元気そうな患者だが、外泊が許可されない人が多のだ。昼すぎ、ビビミッシェルが迎えに来る。クルマに乗って家路に着くと、4泊5日の小旅行から帰っている気分になる。でも、明後日にはがん病棟に舞い戻って戦いが始まることを思うと晴れがましさはなくなる。戦士のつかの間の休息日ということなのか。 7月17日(月・祝) 午後1時、C病院に戻ってくる。病室に入って寝間着に着替えている時に、広島県からバブミッシェルの実の兄が見舞いに訪れる。兄は6歳年上、73歳なのだが、仕事が忙しい人である。「俺は休日でないと行けない」ということなので、この日に来てもらった。義姉も同伴である。 兄とは二人だけの兄弟で、幼いときからすこぶる仲良しだった。両親が他界してからは、お互い、いい相談相手でもある。兄から受けた恩恵は多いのだが、ひとつだけ書いておく。 バブミッシェルが小学校に入学した時に名前のイニシャルがNYであることに着眼して、雑誌「ベースボール・マガジン」を見ながらニューヨーク・ヤンキースの野球帽を兄が作ってくれたのである。全体のシルエットや色あいからマークの刺繍に至るまで、中学一年男子生徒の作品とは思えないような「コピー商品」になっていた。国民は食べる物を買い集めることに躍起になっていた昭和21年のことである。ヤンキースの帽子なんて売っていなかった。得意になって学校にかぶって行っても、同級生は誰ひとり、大リーグの帽子であることに気づいてくれなかった。 兄とは、このような会話になった。 「うちの家系でがんになったのは、お前が初めてだ。がんは遺伝的なものではないんだなぁ」 「自分でもがんに最も縁遠い人だと思っていたよ。そのためか、がんに対して恐怖心がない」 「まあ、しばらくは静かにしているんだな。いい病院じゃないか」
by yonezawa02
| 2006-07-23 17:38
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