エリザベス女王戴冠式の数日前に、英国隊、ヒラリーとテンジンがエベレストに初登頂した。
ヒラリーは長身の英国紳士。テンジンは頑健なシェルパ。世界中が二人の偉業に沸きかえった。
この様子をつぶさに見て「いつの日か僕もヒラリーになりたい」と思った少年がいた。
歳月を経て、その少年はやがて65歳となり、その夢をかなえた。遥か、アフリカの地で。
ここでのテンジン役は、この山の麓で生まれ育った62歳のガイドのヘディック氏である。
で、写真右の人物。ヒラリーのように背が高くないために踏み台をしている所が傷ましい。
前回
[17]で申しました通り、約10日間の投稿のお休みをいただき、登山をしていました。その記録はタンザニア篇で記しますが、臨時ニュースとして結果速報を入れます。
米沢則二。2004年10月13日午前7時8分、アフリカ大陸の最高峰キリマンジャロ(5895m)に登頂しました。前回書きました「人生最後の挑戦」もあながち大袈裟ではないと思うほど、大変なことでした。5000mあたりから上の空気の薄さは体験したことのない激しい体力消耗を強いられ、思考力を失うほどでした。「人生最後の苦しみ」を味わったと言えるでしょう。経験、知識、準備など、反省点が多い登山でしたが、結果オーライで嬉しいです。
なお、美枝子は3780mの山小屋を目指して登ったのですが、3300mの地点で高山病の症状(頭痛と吐き気)が出て、すぐに下山しました。すでに25km近く山中に入っていましたが、10kmほどは自力で歩いて、後は救急隊のクルマでの下山でしたが、幸いにも大事には至らず、今は元気です。則二は「3780mの山小屋で見た、目線の高さで横に糸を引くような夕焼けはきれいだったよ」と甘い言葉をかけ、慰めたつもりでいます。
今回の登山はガイド2名、ポーター5名でスタートしたのですが、3300mの地点でのアクシデントのため、ガイド、ポーター1名ずつ下山したため、その後の3.5日間はガイド1名、ポーター4名と則二の6名で行動しました。その内、ポーター2名は料理担当ですが、5日間、朝、昼、夕食とティータイム、変化をつけながら良く頑張ってくれました。登頂した後、4703mの山小屋に向けて降りている時、早くポーター達と喜びを分かち合いたいという想いが第一にありました。
登頂した日は一気に3780mの山小屋まで下山してシュラフに包まって寝ていたら、夜半、激しく雨が降りました。翌朝、一時的に好天となり、山頂を見たら真っ白に雪化粧。ここは南半球ですから、春のドカ雪といった感じ。ガイドのヘディック氏が厳しい顔をして「今回の計画がもう一日、後ろにズレていたら登頂は難しかったでしょう」と言いました。
今回の山行を総括して「幸運が85%、努力とチームワークが15%で登れた」と言っておきます。
上の写真は4100m付近を登っている時のもの。近年、積雪が少なく、地球温暖化のシンボルとなっているキリマンジャロは、普通、このような顔をしています。
ダルエスサラームに帰って、ずっと雨の日が続いています。小雨期に入りました。
ステイ先のご主人のワンブラ医師と奥さんのフローレンスさんに案内していただいて、ダルエスサラームから海岸沿いに北へ72km、奴隷積み出し港として有名な
バガモヨに行きました。歴史を感じさせる街で、ブログ取材班としては「この街をチャンと表現するには何回か足を運ばないといけない」と感じましたが、日程的にも終盤に近づき、二度と行くことはできないでしょう。
行き当たりばったりの旅でしたが、この後、日本人観光客にも人気の
ザンジバル島に4〜5日行って、帰国することになるでしょう。2ヵ月って、何と短いことでしょう!
次回はケニア篇に戻ります。
[10]で予告しましたキベラからのリポートを入稿します。