19世紀末以来、イギリスの統治下にあったケニアは
1963年12月、ジョモ・ケニヤッタ初代大統領によって独立国となる。
ケニヤッタは「ハランベー(みんな一緒に)」を合い言葉に16年間にわたって大統領に就く。
コーヒー、紅茶、サイザル綿などの農業と、自然環境を生かした観光産業を柱にして、
64年から20年間に国内総生産(GDP)を実質10倍に増大させるなど、
アフリカ諸国で有数の経済発展を達成してきているが、
近年、一次産品価格の低迷や高い人口増加率があって成長を鈍化させている。
「心にしみるケニア」 大賀敏子・著 岩波新書
6日間のケニアの旅は終わった。我々3人を空港で見送ってくれたのは、キムくんだった。
この写真は
カレン・ブリクセン博物館に行ったときのもの。中央の童顔が、我らの「お抱え運転手」キムくん、20歳である。19歳の妻がいて、1歳の娘がいる。まるでサッカー選手のように軽やかなフットワークで動きまわり、ニコニコと笑みを絶やさない好青年である。
ふだんは、ホテルの横の空き地にクルマを停め、客を待つタクシードライバーだ。
ナイロビ市街地からカレン・ブリクセン博物館に向かったとたんに、彼の口からOut of Africa(「アフリカの日々」の原題)という言葉を聞いて少し驚いた。ケニアの人々はOut of Africaを「白人文学」として軽蔑するか無視するかが常ではないかと思っていた。
博物館に着いても、彼は館内に入って説明役を勤めてくれた。我々は130円ほどの入館料がいるが、案内人は無料なのだ。彼が語ってくれた事を二つ記しておく。
この博物館のシンボルにもなっているキクユ族の使用人の女性がいかに忠実で賢明な女性であったかを強調した。そして、ブリクセンが帰国した後も彼女の教えに従って研鑽を重ねたことも。
(ブリクセンは若い頃、絵を描いていた時期があり、
この使用人の肖像画が残されている。)
もうひとつはリビングルームから見える遠くの山である。彼は自らの握りこぶしを我々の眼前に示し、人差し指から小指にかけての4つの膨らみを見せ「あの山々はこんな形をしているだろう」と言った。大きな渓谷を隔てて、遥かかなたの山々を見るのは幸せな気分にさせてくれた。
そこから西南の方向に私はンゴング丘陵を見わたすことができた。
だが、ここからはあまりにも遠く、四つの主峰もほとんど見分けがつかない。
山の輪郭は距離というものの力によって次第にやわらげられ、
やすらかな面影となって、私の記憶に残った。
アイザック・ディネーセン著「アフリカの日々」のエンディング
キムくんの仕事への真摯な態度には好感が持てたし、家庭を大切にしていることが理解できた。
ケニアは、欧米人が中心だけれど、日本人だって年間5000人も訪問している観光国である。
観光というのは、美しい自然や行き届いた受け入れ施設も必要だけれど、人の問題ではないか。
こんな若者が育っているケニアは、きっときっと大きな飛躍が期待できるだろう。
空港で別れる時、彼は携帯電話で次ぎの仕事の打ち合わせに忙しそうだった。
「キムくん、頑張れよ」と手を振ったら、赤いカローラはスッと立ち去った。