TANZANIA & KENYA:タンザニアの暮らし
2006-11-20T16:30:39+09:00
yonezawa02
爺(ジジ)さん! 頑張ってネ。
Excite Blog
[105] ミッシェルちゃんへのメッセージ(2)
http://yonezawa.exblog.jp/4474570/
2006-04-24T22:01:00+09:00
2006-05-28T11:35:51+09:00
2006-04-24T22:01:37+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
タンザニアやケニアでは、ひとりの人がスワヒリ語、英語、自らの部族語の
3カ国語を使い分ける場合が多い。
しかも、4番目の言葉としてシェング(sheng)というスワヒリ語と英語の
合成したものが若者のあいだで流行しているらしい。
何という優秀な民族なのだ…と日本語しか話せない投稿者は拍手をする。
シェングでは友だちの複数形はmameniとなる。ma-は接頭辞で、英語のmenが語源。
語尾の-iは英語がスワヒリ語化するときに付くことが多いらしい。
似た言葉に、日本人=mjapaniというのがあるが、これはスワヒリ語。 やぁ、ミッシェルちゃん。いつも、少しだけ、あなたは寂しそうにしていたね。
近所のお友だちとも、ちょっと距離感をおいていたのが、気になっていたのだ。 ミッシェルちゃんは日本流に言えば、箱入り娘。外に出るときは、ママザマラーディさん、エリザさん、エリーザさん…使用人3人の内、ひとりはついて出ないといけない習慣になっていた。 使用人たちはそれぞれに忙しい。ミッシェルちゃんもそれがわかっているから無理は言わない。 庭で兄のカルビンくん達が遊んでいる時も部屋の中からそれをジッと見ている。そんな光景が多かったのだ。そこに救いの神が現れた。バブとビビ。つまり、私たち。恰好の保護者なのだ。 そんな事で、私たちと一緒に遊びに出ることが多かったが、外に出ると特別扱いされていた。 隣りの家の庭に行くと、そこの家の使用人から「ミッシェルちゃん、なかに入って遊ばない?」と言って手を差し出されるのだが、ミッシェルちゃんは頑なに室内には入ろうとしなかった。
他の子供たちはそんなことを言われようものなら、脇目もふらずに部屋の中に飛び込むのだ。 ミッシェルちゃんはみんなから愛されていた。だから、友だちづくりに性急に
なっていなかった。それでいいのかな。そんな風にバブとビビには見えたんだ。 さて、冒頭のシェングだけれど、なぜ友だちの複数形の語源がmenなのだろう。「友だち」と「人」が同意語という感覚は我々にはない。このことを理解するのに都合のいい言葉がある。
ハランベー(harambee)。もともとはヒンズー教の言葉で「神様、いらっしゃい」という意味。 アフリカには古くから相互扶助の伝統があり、その精神は現代社会においても消えることなく残っている。近親縁者や仲間同士はもちろん、何の縁もゆかりもない人でも、様々な場面での助け合いが行われている。ハランベーはお金が必要になったときに、周囲の人々がお金を出し合って助けるというもので、大きなものから小さなものまで日常生活の中で頻繁に行われている。
葬式を出すときや結婚をするとき、病気になり医療費が必要なとき、学校を建てるとき、子どもの学費が足りないときなど、ひとりの力では不可能なことも、大勢の人が力を合わせれば実現できることがある。だが、見ず知らずの人のためのハランベーが回ってくることもあるのだ。
「アフリカ日和」 早川千晶・著 旅行人 この赤の他人がお金を出し合う行為に対して、早川千晶は「多民族の入り乱れる国を
ひとつにまとめて引っ張っていくには、ハランベーが必要」という支配者の理念にも
触れていますが、根本的には日本では死語になっている「袖すり合うも他生の縁」と
いう精神がアフリカには残っていることではないだろうか。 (写真のキャプションが読みにくい場合は写真の上でクリックしてください。拡大されます。)
【LOG in BLOG】06.5.5
5月5日に浜松市で「ハランベー☆パーティー」が開かれました。
投稿者は現地に行くことができなかったのですが、いかにも楽しそうだったのでお願いしたら、大橋弥生さんがE-mailに写真を2点添付して送ってくださいました。入稿させていただきます。 音楽仲間が次々と前に出て、即興演奏をする。音まで伝わってきそうな雰囲気です。このパーティースタイルはお手本にしたいものですが、我々凡人には真似できないものでしょうね。 「こどもの日だから、私たちが主役よ。カテンベくん基金のための募金箱づくりは任せてね。」
このパーティーに我がブログのキベラの子ども達の写真をプリントして展示してくださったのには恐縮しています。詳しくは「ちびっこにっき ちびっこのおかしな日々」をご覧ください。
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[104] ミッシェルちゃんへのメッセージ(1)
http://yonezawa.exblog.jp/4329445/
2006-04-02T23:53:00+09:00
2006-05-29T09:15:14+09:00
2006-04-02T23:53:23+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
小学校は7年間在籍するもほとんど登校せずに形式卒業する。
中学校に入学するが、やはり登校しないまま中退する。
1980年、「登校拒否」という言葉がなかった時代の登校拒否児、15歳の高野少年は、
単身、タンザニアのムソマのスワヒリ語学校に入学し、初めて学ぶことの意味を発見する。
学校生活にも慣れて、スワヒリ語で周囲の人と話せるようになりかけた時に… 突然、後ろから腕をつかまれた。びっくりして振り向くと片腕をなくした、
ちょうど僕と同じような年ごろの少女がそこに立っていた。
金をくれ、恵んでくれと、まるで歌でも口ずさむかのように静かに言いつづけた。
何も食べていないらしく痩せ細り、身に着けているものもズタズタだ。
僕は思わず、ポケットに手をつっこんだ。
「僕の学校はアフリカにあった」 高野生・著 朝日新聞社 ミッシェルちゃん、元気かい。きっと元気いっぱいだよね。 あなたは、いつも輝いていた。まるで王女さまのように。 この時は2歳半だったが、今は4歳。きっと大きくなり、気高くなったことでしょうね。 あなたは理知的な顔をしているが、言葉数は少なかった。王女さまは多弁ではなかったのだ。 「バブ(babu・おじいさん)」「ビビ(bibi・おばあさん)」の2語しかしゃべらなかったのだ。 でも、その2語だけのイントネーションで充分にコミュニケーションができたから不思議だ。 「バブ」と「ビビ」の2語だけで、「朝だよ。ドアを開けて。いっしょに遊ぼうよ」とか、 「庭に出るから付いてきてね。でないと、叱られるから」と言っていることがわかるんだ。 今、バブもビビも日本に住んでいるのだが、ちょっと耳を澄ませば、
ミッシェルちゃんが「バブ」「ビビ」と叫んでいる声が聞こえてくるんだ。 そこで、ミッシェルちゃん。あなたにわかってほしいことが、ひとつあるんだ。
あなたの境遇って、タンザニアという国の中で、結構、特殊なのだということ。 このブログを見ている方は、ミッシェルちゃんがタンザニアにおける幼い子どもの標準モデルと思っているかもしれない。でも、そうじゃないんだ。王女さまなんだ。残念ながら… この国には貧しい人びとが大多数を占めている。バブやビビはそんな方々と接する機会が少なかった。そして、接するチャンスがあっても、彼らにカメラを向ける勇気がなかった。 一見、ハッピーな感じに見えるんだけど、本当は貧しい人びと。
そんな方々が大勢いたんだけれど、どう接したらいいのか、わからなかった。 だが、その時だった。
「待つんだ。おまえは何をしようとしているのだ」と、もうひとりの僕が叫んだ。
少女に贈るものはいったい何なのかを、自らの生き方も含めて探しださねばならない。
そうする以外に、少女と同じ境遇にある人達を救えない。死を生かすことはできない。
手をふりきって立ち去りながら、他の人のほうに歩きだす少女の背に向かって叫んだ。
「許してくれ。力無いこの俺を!」
「僕の学校はアフリカにあった」 高野生・著 朝日新聞社
【LOG in BLOG】06.3.19
壮絶なブログを発見しましたので紹介させてください。
と言っても、我がブログでは何度かご登場いただいた方のブログではあるし、
今年2月23日にスタートしているので、すでにご存じの方も多いのかもしれませんが… 昨日の土曜日の午後、雨が降るので近所でのテニスは中止になるし、仕方なくパソコンの前にすわってネットをしていました。前回[102]のLOG(日記)で書きましたように、ナイロビのキベラの11人の子供たちがケニア東部のミリティーニ村に移住したわけですが、その後、村の子供らと仲良く学校に行ったり、遊んだりしているのだろうかとツラツラと思いめぐらせていました。 と、何と、パーカッション演奏家であり、CD「センゲーニャ」 などでケニア東部の音楽を紹介しているミュージシャンの大西匡哉くんじゃないか。2年前からミリティーニ村に住み込んで、この村の演奏家との交流をはかりながら勉強している彼が、ブログを開いているではありませんか。 内容についてはブログをご覧いただきたいので、ここでは簡単に述べます。
ミリティーニ村に住む14歳の少年カテンベくんが腎臓を患い、現在、ナイロビの病院で透析などを受けているわけですが、病状は思わしくありません。そして、多額の治療費がいることがわかり、匡哉くんは「カテンベ腎臓移植基金」を立ち上げました。そして、これに賛同して、横浜の方々が、そして、福岡県の豊津町の方々が活動しているのです。ぜひぜひ、ご覧ください。
「カテンベ救済の呼びかけ」http://keepmusic.exblog.jp
「ウペポ〜アフリカの風ネットワーク」http://homepage2.nifty.com/upepo このブログを見て、即日(3/18)、激励するために匡哉くんにE-mailを出しました。
すると、匡哉くんはカテンベくんに付きっきりで手が離せないということで、
本日(3/19)、早川千晶さんが代筆したE-mailをいただきました。
伝統音楽を学ぶためにやってきた太鼓叩きの匡哉がめざましく変化を遂げています。
私はいろいろな事を考え込んでしまい、呼びかけ文を書けるまでに1カ月かかりましたが、
匡哉は素直な気持ちの持ち主で、すぐに行動に移しました。
カテンベが生きていくことができますように、いつの日か、笑顔で学校に通えるように、
心からお願いします。カテンベを励ましてあげてください。
なお、ミリティーニ村に引っ越したキベラの子供たちは、
その後、本当に元気に、幸せに、楽しそうにしています。詳しくは後ほど。 ところで我がブログ、見ている人は見てくれているのですが、親友でも見ない人は頑なに見ないのです。そんな方々にもカテンベくんのことは知ってほしいということでチラシを作りました。
ナイロビの二人に確認のメールしましたら、3月27日、大西匡哉くんから返信が届きました。
チラシ拝見しました。ありがとうございます。
カテンべの病状はほぼ安定していますが、このまま生き続けるには、
とりあえず透析が不可欠であります。
しかし、現在の募金状況では2〜3ヶ月の透析で底をついてしまうので、
その場合、どうしようかと思っているところです。
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[102] クンドゥチ・ビーチ ホテルほんのり
http://yonezawa.exblog.jp/4231410/
2006-03-06T21:43:00+09:00
2006-04-23T20:16:37+09:00
2006-03-06T21:43:45+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
九月の末になると、街のあちこちでジャカランダが咲き始める。
薄紫の小さなベルのような花で全身をおおい、街の様子を一変させる。
普段は目立たない樹だが、こんな所にもあったのかと驚かせるところが桜に似ている。
「ムチョラジ(絵描きさん)!」 坂田泉・絵と文 求龍堂 都市生活者を巧みに描くことで定評があるムクーラの「Scrambling for the Bus」というティンガティンガ絵画である。ボディに「KUNDUCHI-KARIAKOO」と書いてある。
カリアコーはダルエスサラーム中心の商店街なのだが、そこに向かう満員バスの典型がクンドゥチ始発のもの。そうなんだ。クンドゥチはリゾートであると同時に郊外住宅地でもあるのだ。 タンザニアには49日間の滞在だったが、このクンドゥチ・ビーチには二度来ている。
一度目は九月末の日曜日、ワンブラご夫妻の案内で初めての日帰りドライブだった。 花の季節なのだが、ここでは、なぜか、ジャカランダよりもブーゲンビレアが目立っていた。 駐車場からホテルの中を通り抜けて、プールで泳ぐでもなく、ビールを飲んだり、食事をするでもなく、ただ、ジッと海を眺めた。ご夫妻にとっても、お気に入りの場所なのだろう。 二度目は帰国直前の土曜日から日曜日にかけてだった。1カ月半という長期ステイになったワンブラ家へ我々の感謝の意をこめての、このビーチコンバーホテルに一泊のご招待だったのだが… カルビンくんもザマラーディちゃんもプールで泳げるということで張り切っての同行だったのだが、出発直前に来客があったりなどで到着時刻が遅れ、水着を濡らすことなく帰宅となった。
いつも賑やかな二人がホテルの中ではレディース・アンド・ジェントルメンの顔になった。 ワンブラご夫妻は土曜の午後から携帯電話が鳴り続け、自宅と職場とホテルを行ったり来たり。 結局、ホテルに落ち着いたのは土曜の深夜だった。そして、日曜の朝食を終えるとそそくさに帰路に着くという多忙さだった。この忙しさって、発展途上国独特のものじゃないのだろうか。 このビーチコンバーホテルのインテリアには驚いた。パンフレットには、
世界的な室内装飾家によるcolors of African heritageと書いてある。 壁、天井、柱に施された、淡く、ほんのりとした色調に見とれてしまった。 この色彩って、ジャカランダを模したのだろうか。
【LOG in BLOG】06.2.13 [45]のLOG(日記)で書きましたが、タレントの加藤晴彦がケニアのナイロビのスラム街であるキベラに行ってのドキュメント「あいのり」(フジテレビ系列)がありました。あれから一年少々になりますが、その続編のような番組を2月13日午後11時15分から30分間放送しました。
再度、ケニアに行った加藤晴彦に対して早川千晶さんが説明役として登場。キベラのホーリーユニティ小学校が道路建設のために廃校になるという話しから始まります。そこの生徒から移住希望者を募り、11人の子供がケニア東部、インド洋沿岸のミリティーニ村に見学に行きます。
11人の子供たちは自然がいっぱいのミリティーニ村がすっかり気に入り、移住を決心します。 生徒のひとり、8歳の男の子のエリック君はキベラの家に帰って母親に言います。
「僕はこの家を出ていくよ。新しい学校で勉強したい」
焼きとうもろこしを売りながら、4人の子供を育てている母親はうつろな目になって応えます。
「そうなの。私はこの子に何もしてあげられない。だから引き留めることはできない。
これからはエリックを遠くから祈るしかない。祈るしかできない」
元気いっぱい、幸せそうに、11人の子供がミリティーニ村に移住して行きます。そして、番組が寄付を集めて新築した「あいのり学校ケニアスクール」に入っていく所で終わっています。 エリック君のお母さんの悩みは、今、アフリカが抱えている悩みそのものでしょう。
子供たちを受け入れてくださったミリティーニ村の方々の慈悲深い行為を称賛します。
一本のバオバブの木が立つ丘の上、そこに建ったピンク色の新校舎は何ともきれいだ。 このテレビ番組「あいのり」の裏話を早川千晶さんがE-mailで送ってくれました。
今回の主役とも言える10歳の男の子のトニー君は義父に虐待され、Street Children(浮浪児)になっていました。彼がミリティーニ村への移住が決まった時にこう言って泣いたそうです。
「僕は路上で寝ていたとき、毎晩『神様、どうか安心して暮らせる場所をください』と
お祈りしていました。神様はその祈りを聞いてくれたのです」
これまでのご寄付で立派な校舎が建ちました。
あいのり募金はまだまだ続きます。引き続き、浄財をお願いしています。
受け付けはこちらから〜
【LOG in BLOG】06.3.3
ディジュリドゥという、珍しい楽器のライブを聴いた。
オーストラリア大陸の先住民アボリジニがユーカリの木の内側をアリに食べさせて空洞にした木管で、何と1000年以上も前からの民族楽器である。ただし、写真の二本は竹でできている。 演奏するのは、はくさんまさたか(写真右)という神戸の方である。普通、地面に座って演奏するらしいが、レストランの中なので立ったままとなった。大きな楽器で大きな音量を発するわけだから、体力を要するようだ。左の女性は彼の弟子で、終盤の二曲は共演となった。
音楽的にはモンゴルのホーミーを低音にした感じと思ったのだが、当たってるかな? 違うかな?
会場は「世界のごちそう パレルモ」というレストラン。エスニカルな創作料理が美味だった。
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[101] クンドゥチ・ビーチ プールの情景
http://yonezawa.exblog.jp/4187410/
2006-02-22T23:24:00+09:00
2006-04-18T23:17:37+09:00
2006-02-23T01:08:38+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
アフリカの住民は地球上の文明のさまざまな領域における発展に
まったく参与しなかったと考えられていた。
アフリカは歴史を持たないというのであった。
アフリカ社会のこのみじめな状況に基づいて、地理学者は
ほとんど島に近い形状、アフリカ大陸の孤立を強調してきた。
「アフリカの民族と文化」ドニーズ・ポーム著 川田順造・訳 白水社 ワンブラ家にステイしていて、想定外だったことがある。 ご主人のワンブラさんや近所の大学生が集まって、欧州サッカーのリーグ戦を 夜中の1時や2時ごろ、テレビ観戦するのだが、その様子が尋常ではないのだ。 時差の関係で実況が夜中になるのは仕方がないのだが、「ワァ〜」とか「ウォ〜」といった 叫声を発するので、別棟に寝ている我々も目が覚める。
何か、大事件でも起きたのではないかと思ってしまうほどである。 日本でのマラソン大会でタンザニアの選手が第何位になったかも、こまめにチェックしていた。日本のマラソンも実況中継すれば、彼らは熱狂的な応援をすることだろう。 アフリカ以外の国々との接点。それは、今、第一に、スポーツになってないか。
アフリカ大陸の孤立感をなくすための大切なカードになっていないか。 今回、トリノ・オリンピックのスピードスケートで黒人選手初の金メダルがあった。 彼らの身体能力の高さを発揮する分野が次第に拡がっている。 次は夏のオリンピック、水泳での活躍ではないだろうか。
でも、彼らは白人と泳ぐことに妙に神経質になっていた。
【LOG in BLOG】06.2.3 [95]のLOG(日記)でもご紹介したサカキマンゴーのソロライブが神戸であった。
大西匡哉とのコラボレーションでは東アフリカの音楽を紹介するというスタンスだったが、ソロライブではタンザニアの楽器を駆使しての、見事なまでの「マンゴーワールド」になっていた。
エレクトリック・ベースの美谷真希の援護もあって何とも言えぬ心地よいコンサートであった。 会場でタンザニアから取り寄せたリンバという楽器を売っていた。彼が「家で壁に向かって弾いているといい気持ちになる」と説明したら、何千円かする楽器が数個、すぐに売れた。
10年ほど前から娘が買ってきたリンバが我が家にはあるが、あの鉄の爪を引っかくと指先がヒリヒリしてきて、いい気持ちどころじゃないのだが… マンゴー先生、そんな時はどうするの? 昨年発売した彼のCD「limba train」はタンザニア発の列車の音だろう。
その列車では楽器など、いろいろな文化遺産を運んでくれることだろう。
サカキマンゴーの演奏会スケジュールなどをお知りになりたい方は…
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[100] クンドゥチ・ビーチ 輝く海と空と砂
http://yonezawa.exblog.jp/4175603/
2006-02-19T20:21:00+09:00
2006-06-08T11:04:30+09:00
2006-02-20T01:30:53+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
[01]が2004年8月27日であったから、一年半かけて、やっと100回目になったのである。
その間、アクセスしてくださった方の数は6662(この稿を入れた2006年2月19日現在)。
「その程度だったの」と言われそうな数字なので、公表することを躊躇していたが、
我々にとっては身に余る数字なので、感謝を込めて記しておきます。
最近つくづく思うのは、ブログってのはタイムリーじゃないとダメということである。
でも、このブログでは一昨年の旅行の話しを書いている。
いささか後ろめたさを感じているところではあるのだが、ご辛抱のほど。 一昨年9月11日、関西空港を出発し、12日にはケニアに着き、
17日にはタンザニアに到着した。その時、いろいろな方々のご協力を得ながら、
ブログを日本に送ることができないまま、悶々と日々が過ぎていた。
現地から初めて送ることができたのは、[10]の原稿、9月30日の夜9時であった。
すでにアフリカに滞在して19日目。デジカメで撮った写真は数百枚に達していた。
そんな中から日本に送った最初の写真は、上掲のクンドゥチ・ビーチであった。 クンドゥチ・ビーチ(Kunduchi Beach)…何の変哲もない景色にアフリカらしさを感じた。 このインド洋の遙か彼方には日本もあるという、郷愁にもかられたのだ。 広々とした海があり、青く抜けるような空があり、白くて気持ちいい砂浜がある。 ここはサンゴ礁の浜なのである。砂はサンゴ礁独特の硬さがあり、ビーチバレーにうってつけ。 対岸のンブデャ島はシュノーケリングのメッカであり、漁師の島でもある。 行くことはなかったのだが、この小島の付近はコバルトブルーの海で透明度の高いらしい。 クンドゥチ・ビーチは、ダルエスサラームの中心部から北へ、 海岸沿いの道を10km少々、クルマで走った所にある。10kmという距離はいかにも近い。 都市近郊型だけれど、まさに、リゾートなのである。 この海岸でジッと椅子に座っていると、心が洗われて、身体までも清められるような気がする。 ところが、この海、何やら危険なのだそうだ。アスカリ(守衛)までもいるではないか。 気が遠くなるほど、遠浅なサンゴの海である。何が危険なのか、わからなかった。
ここは「見るための海」であり、泳ぐための海ではないのだ…ということなのか。
【LOG in BLOG】06.2.2 この冬は記録的な寒い日が続きます。でも、寒がってばかりではダメと自らに言い聞かせて、 北海道、それもとびきり寒い山岳地帯やオホーツク沿岸などを見て、そして、体験してきた。 行きも帰りも新千歳空港が基点。千歳→札幌→旭川→層雲峡→北見→網走→摩周湖→阿寒湖→十勝平野→夕張→支笏湖→札幌→千歳。全コース940kmにおよぶ4日間のバスの旅である。 しかも、ホテルでの夕食の前や後、屋外に出ての耐寒訓練のごとき観光も組まれている。 夜、人工的に造られた氷のドームや氷の上でのイベントを見ながら一時間くらい歩き続ける。 氷で造られた階段を登ったり降りたりするために、旅行社が短い爪の付いたソールを貸してくれるのだが、投稿者は登山用のアイゼンとスパッツを持参して気持ちがいいほど効果を発揮した。
みんなが恐る恐る歩いている横を、ザクッ、ザクッと音をたてながら誇らしげに走ったのだ。 実はキリマンジャロでもアイゼンを履いて氷河の上を歩きたかったのだが、ガイドがそんな危険で馬鹿馬鹿しいことを許してくれないだろう。氷にくい込む感触、たまらなく快感なのだ。 この度はウィークデー旅行とあって、参加者はリタイア組が大部分。
みんな、刺激を欲しがっているんだろうね。前列右端二人が投稿者。
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[99] マコンデ彫刻 まっ黒な妖怪たち
http://yonezawa.exblog.jp/4069462/
2006-01-24T10:15:00+09:00
2006-04-18T23:24:59+09:00
2006-01-24T10:15:24+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
むかしむかし、荒れ果てた土地に、ひとりの男が寂しそうに住んでいました。
ある日、この男は黒檀の塊を拾ってきて、ナイフを使って人物像を彫りました。
すると、翌朝、その像は女になっていました。やがて男はその女と結婚しました。
二人はマコンデという名の高原に移り住み、赤ちゃんが生まれました。
その赤ちゃんがすくすくと育ち、最初のマコンデ族となったとのことです。 マコンデ族はアフリカ中央部からインド洋岸に移動してきた民族と言われている。
アフリカ中央部というのが、伝統的に彫刻が盛んで、各民族が競うようにして木彫りをするコンゴ民主共和国(旧ザイール)であるかどうかは特定できないが、その辺りから移住してきている。 そして、最初はインド洋岸に住んでいたのだが、猛獣や蛇、マラリアを媒介するハマダラ蚊に脅かされたために、モザンビークとの国境近くの海抜500〜800mのマコンデ高原に移ったのだ。 冒頭の「マコンデ神話」は200〜300年前のこと。そんなに古い話しじゃないと言われている。 ま、そんなことで、民族として誕生するとほぼ同時に、黒檀を彫っていたのだろう。 黒檀は硬くて、重量感があり、彫るのにかなり手間がかかるようだ。 ここでの彫刻は神聖視され、宗教儀式用として作られていた。現在、象やキリンを彫ったものが 多いのだが、マコンデ高原にはそのような動物はいないため、近年になってからのものである。 現在のマコンデ族の人口は約50万人なのだが、彫り師はダルエスサラームに集まっている。 ダルエスサラームは「天然の良港」と言われていて、海に面して市街地が形成されている。
我々がステイしていたダルエスサラーム大学は逆にその奥まった所で、小高い山の上であった。街全体を見下ろせてるのだが、市街地には約10km。ダラダラを乗り継いで小1時間を要した。 でも、幸いにも、マコンデ村には歩いてでも行けるような距離だったのだ。 商店街もあるムウェンゲから少し離れた場所、簡素な住宅街の中にポツンと村があった。 マコンデ村はマコンデをつくる場所というよりも、売る場所のような気がする。 黙々とマコンデを彫っている人もいるのだが、それを売る人の方が多かった。 このような店が、多分、100店ぐらいはあると思う。我々の顔を見ると彼らは… 「こんにちは」とか「安くするよ」といったような日本語で呼び込みをする。
その凄さに最初は圧倒されたが、何度か行くうちに慣れてくる。 これは本来のマコンデ彫刻ではないのだが、我々の気持ちをもっとも捕らえたのは、この木彫りの箱であった。中に人も入れるような大きさの、ほとんど、タンスのような収納家具である。
マコンデ村には、このような家具専門店も何軒かあるのだ。 彫りを見せることに主体があり、使い勝手がいいものではないのはわかっていたが、このような物を生活のそばに置くことに価値を感じた。でも、思ったよりも運賃が高くつくことがわかり、涙ながらも購入することをあきらめた。この次、タンザニアに行ったら、絶対、買うぞ! マコンデ彫刻をもっとたくさんご覧になりたい方はこちらへ。
【LOG in BLOG】06.1.17
阪神大震災11年目の「1.17」を迎えた。民間追悼行事は昨年よりも4割減とあり、マスコミは「風化」という言葉を使っているが本当なのか…そんな想いで三宮駅南側の東遊園地に向かった。 太い竹筒が並べられ、ロウソクが灯されている。暗くて寒い夜だが、大勢の人が集まっていた。テレビ各局が横並びになり、明々とした照明ランプの下でニュース番組を放送している。「例年と変わらないじゃないか」とホッとしていたら、ひとつ、昨年まではなかったサプライズが… 東遊園地の片隅に、四面を木彫で囲った灯籠を100点ぐらい並べている人がいた。それぞれに手の込んだ図柄で、力作である。立ち止まって見ていたら、中年の男性がそばに来て言った。
「あなたのオリジナルの図柄で灯籠を作りませんか。この紙に絵を描いていただいたら、無料で灯籠に仕上げます。作った灯籠は来年の1月17日に持ってきます。今日、50名に限定してお話しています」と言って、縦長の長方形の図柄を描く用紙をいただいた。用紙にはFAX番号が書いてあったが、お名前はない。FAX番号から三重県の方であることはわかったのだが…
この方は昨年、神戸の誰かに灯籠を依頼されて「50名の方に無料で」というのを思い付いたとのことだった。僕はティンガティンガ風の象やキリンやシマウマを描いてお願いしようと思っているのだが、無料というのが気になる。手土産を持って行ったら受け取ってくれるだろうか。 このように「1.17」に新たに関わろうとしている人もいる。
風化なんて、まだまだ先の話しではないか。
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[98] マコンデ彫刻 そこに至るまでの経緯
http://yonezawa.exblog.jp/4056632/
2006-01-21T10:14:00+09:00
2006-06-20T10:18:13+09:00
2006-01-21T10:14:48+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
作り手は神が宿る場所であるかのように、造形してきたのである。
「アフリカの彫刻」カルル・アインシュタイン著 桐島敬子・編訳 岩崎美術社
1922年にドイツで出版され、邦訳は1984年。双書美術の泉 (E)と略す。 アフリカのニグロ彫刻に直接の暗示を受けて、キュビズムが誕生する。
ピカソやブラックが現代芸術に独特の貢献をすることになった。
「彫刻の芸術」ハーバート・リード著 宇佐見英治・訳 みすず書房
1954年にアメリカで出版され、邦訳は1957年。 (R)と略す。 アフリカ美術はとてつもなく幅が広く、大陸全体が文化の坩堝なのだ。
ブロンズ鋳造や木彫りの伝統技法は高度な発達をとげ、彫刻師は尊敬されていた。
「彫刻入門」メアリー・ジェーン・オピー著 西嶋憲生・訳 同朋舎出版
1994年にイギリスで出版され、邦訳は1996年。ビジュアル美術館 (O)と略す。 アフリカにおける彫刻の歴史は、ほぼ赤道沿いに西から東へ移動してきたのではないだろうか。
そして、不思議な話しなのだが、木彫りではなく、ブロンズ鋳造が源流になっているのだ。 <ナイジェリア>
ブロンズ鋳造は古代エジプトで誕生し、ギリシャで発達しているが、西アフリカでも独自の発展を遂げた。当時、脱ロウ法というヨーロッパでも類が見られない優秀な工芸技術を駆使していたらしい。ロウを熱で溶かして銅を流し込み、1〜3ミリという薄さで鋳造を施している。 左の少女像の帽子と首飾りは高貴な身分を証明するもの。リードは「偉大な彫刻がもつ普遍的な特質をもつ」と絶賛している。ベルリン民族学博物館所蔵だが、吹田市の国立民族学博物館に複製が置かれている。前後左右、どの角度から観ても優美さに溢れている。脱ロウ法の代表作。
右の肖像の顔には縦の模様が彫られ、これが以降の木彫の流れになる。以上4点ともブロンズ。
20年ほど前にNHKテレビが8回に分けて放送した英国MBTV制作のドキュメンタリー「アフリカ」という番組があった。そのタイトル・バックが上載の「ベエニン王国の少女像」で、番組の中で「これらのブロンズを最初に見たヨーロッパ人はアフリカでつくられたものとは信じなかった。でも、今はそんなことを言う人はいない」と語られている。また、「西アフリカにおける王国の王は法的に縛られていた。ヨーロッパの王国よりも合理的である」とも。 <ガボン>
ナイジェリアの「イフェ族の肖像」の浮き彫りがガボンでは幾何学的模様となってくる。
左の像は金属板をたたいて、中央の像は金属線を使って、細かい模様を刻んでいる。二作ともモダンなフォルムだが、死者の霊を保護するための守護神である。
右の宗教儀式用の木彫は目に銅版のはめ込んで、すべてを見通す呪力を持つと信じられている。 <コンゴ民主共和国(旧国名ザイール)>
タンザニアの西隣の国のコンゴの彫刻は、一段と幾何学的模様が顕著に見られるようになる。
アインシュタインもリードもアフリカの彫刻を論ずるうえで、コンゴの木彫を主体にしている。
アインシュタインの「アフリカの彫刻」では65点の彫刻を写真で紹介しているが、うち35点はコンゴのものである。では、なぜ、中央アフリカの国であるコンゴで彫刻が爛熟したのか。 コンゴには200もの民族が混在していて、それぞれに独創的な木彫りをつくっている。そのようになった根拠がわかりにくいのだが、平凡社の「世界の民族」にこのような一文があった。
「コンゴ盆地は油ヤシやゴムの木が繁茂し、綿やトウモロコシが栽培でき、豊かであった。
諸部族は先祖崇拝に基づいた宗教をもち、多彩な彫刻や華麗な物質文化を発展させた。」 <タンザニア>
さて、上記の三つの著書ではあまり触れていないが、タンザニアの彫刻が、近年、注目の的。
左の女性像はへそが乳房と同じくらい突出している。耳の環と上唇に金属がはめられている。腰にビーズの衣をまとう。幾何学的模様ではないが、胸と腹部に模様のようなキズが刻んである。
右のユーモラスな椅子はイスラム国王のために作ったものだが、ベルリン民族学博物館に所蔵。
いずれも「古典マコンデ」とか「伝統マコンデ」と呼ばれるものである。
【LOG in BLOG】06.1.1
新年おめでとうございます。
大方のご夫婦はそうじゃないかと思いますが、投稿者である我々夫婦も、趣味、趣向、その他、すべての点で別民族のごとく「違ってるなぁ」と思いながら共同生活しています。
でも、我々には、ひとつだけ共通点があります。それが「犬好き」ということです。 犬好き人間には「犬が好きな人」と「犬が好きでない人」を嗅ぎ分ける能力があるのです。
新年は年賀状などで犬の絵を見る機会が多いわけですが、「犬好きが描いた犬」ということでは、このムツゴロー氏の絵を推します。左の絵は子犬の頃。片方の後ろ足が内に向いているところが可愛いのです。右の絵は同じ犬が老いてから。老犬は哲学者のように見えませんか。
皆々さま、本年もよろしくお願いします。
このブログ、エンディングに近づいてきました。今しばらく、おつき合いのほど。
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[97] ティンガティンガとその仲間たちの絵
http://yonezawa.exblog.jp/3906021/
2005-12-14T22:40:00+09:00
2006-04-18T23:33:29+09:00
2005-12-14T22:40:40+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
この画法の創始者のE.S.TINGATINGA(1937〜1972)はタンザニア南部の村で生まれ育った。
故郷を出て、ダルエスサラームで肉体労働をするようになったのだが、やがて失業する。
絵を描くことが好きだった少年時代を思いだし、食うために絵を描きはじめる。
絵筆を握ったのは30歳過ぎてからであったが、社会的に注目されるのは早かった。
でも、その後、2年半でこの世を去った。アフリカにおける写楽である。
「ティンガティンガ(1)」(1990年刊) 「ティンガティンガ(2)」(1992年刊)
この二冊の著書は共に… 白石顕二・山本富美子 = 編者・共著 講談社
上記の文章は(2)の白石顕二による解説文を抜粋したもの。 ここはンゴロンゴロ自然保護区の入口のあたりなのだが、タンザニアの観光地に行くと、必ずと言っていいほど、こんな土産物屋に出会う。日本の土産物屋とちょっと違うところがある。 近づいてみると、吹田市にあるミンパク(国立民族学博物館)のような雰囲気が漂ってくる。
日本のように名物の饅頭や最中は置いてなく、埃をかぶったガラクタがかき集められてある。 店内には彫刻や絵画がギッシリと展示してあり、大きめの絵はこのように屋外展示となる。
砂埃がしている…雨が降り出したら…と思うのだが、ペンキのような画材(エナメルペイント)なので大丈夫なのだろう。これがティンガティンガという絵画。独自の画法で人気があるのだ。 こちらはザンジバルのストーンタウンの「オールド・アラブ砦」という要塞の中にある芸術村。 古い城壁を見せる観光地なのだが、色鮮やかなティンガティンガの方に目が向いてしまう。 ザンジバルの島内にいる動物は猿と犬ぐらいなのだが、絵には象やキリンが描かれている。
ま、ティンガティンガという絵画スタイルは、描く場所が変わっても、作者が違っていても… いつも同じ様式を守っている。上の2点のキリマンジャロの絵は作者も違うし、時代も違う。
頂きは左が主峰で、右がマウェンジという副峰。このように描いた絵は他にもたくさんあった。
[65]でも紹介した右の絵の右上、レイヨウ類のガゼルなのだが、この描き方にご注目。 いろいろな画家が同じフォルムで描いている。こうなってくると、誰が誰の真似をしたのかわからなくなる。トムソンガゼルのキュートな感じを表現すると、このようになるのが必然なのか。 さて、冒頭に出てくる創始者ティンガティンガの絵はヨーロッパの蒐集家に買い集められ、モノクロの写しでしか見られないのだが、デフォルメの方法に独特のものがあったことがうかがえる。 創始者の彼も動物の絵が多いのだが、珍しく風景画があった。聖ジョセフズ教会を描いたものなのだが、絵と写真と見比べて、彼のデフォルメの方法をあなた自身で考察してみてください。
余談になりますが、右の写真はザンジバルに行く時に船上から撮ったものである。絵は1970年頃描いたもので、その時点ではなかったと思われる渡船場の待合室が手前に建っている。海から眺めた時に融合するように、待合室の屋根や壁、柱の色に配慮がしてあるではないか。美しい! 絵画を鑑賞するのに、あまり理屈っぽくなってはいけないので… 気に入った作品を並べてみます。まずは、動物を描いたもの。 象、キリン、シマウマの絵はたくさんあるのだが、ライオンは少ない。描きにくいのか? 鳥の絵も多いのだが、デフォルメしすぎて、何の鳥かわからないものがほとんど。 ティンガティンガの30数年の歴史の中で、もっとも進化を証明しているのは、 バックのグラデーションが、年々、多彩になっていることではないだろうか。 創始者ティンガティンガは、1972年、弟子たちと酒を飲んだ後、クルマに乗り、警官にとがめられ、カーチェイスとなり、銃弾が当たり即死している。センセーショナルな最期だった。でも、 彼は彼が創ったスタイルを逸脱することのない後継者に恵まれ、今日の隆盛を迎えている。 問題は、これらの絵画が「芸術」なのか、「土産物美術」なのか。
1960年代末、創始者は「食うために」描き始めたのだが、
今日、これらの絵画を見て、あなたはどうお考えになりますか? ティンガティンガの作品をもっとたくさんご覧になりたい方はこちらを。
【LOG in BLOG】05.12.8
12月5日午後、タンザニアとコンゴの国境にあるタンガニーカ湖付近でマグニチュード6.8の地震がありました。yahooやgooの速報で知り「これは大事件だ」とばかり、JATA toursとワンブラ家にE-mailを出しましたら、このような返信をいただきました。(受信した順番に並べます) [JATA tours 根本利通様より]05.12.6受信
たくさんの方からお見舞い、心配のメールを頂いて恐縮しています。
でも、日本大使館から「地震があったようだけど」という電話をもらって、私は初めて知った次第です。ダルエスサラームでは体感した人はいないのではないかと思います。
大使館から電話があったのは、京大のチンパンジーの調査基地が震源地の近くなので、野生動物保護協会の事務局長をしている私のところに研究者の動静を問い合わせてきたものです。
[フローレンス夫人より]05.12.7受信
Jishin arimasu. Demo minasan genki. Anata, shinpai nai. We are all ok.
Demo, jishin chotto okkii desune. Regards. Florence
[ワンブラ医師より]05.12.8受信
Jishin daijobu desu. Demo sukunai hito ga shinimashita (hitori dake kana).
Thank you GOD. Tanzania de jishin nikai, Ichinen gurai de. Wambura Casmir 良かった! 死者が一人だけ!?
日本の新聞は6日の朝刊に小さな記事を載せただけでした。状況がわからず、心配しました。
屋根が重い日本の家屋と違って、アフリカの民家は耐震性があるのではないかと思われます。
パンフレットにはタンガニーカ湖のことを「世界でいちばん透き通った水、世界で二番目に深い湖」と書いてある。チンパンジーがいて、数々の探険記に出てくる辺境の地…あこがれるなぁ。
【LOG in BLOG】05.12.10
前回の佐野由美作品展に引き続き「我がblogの数少ないリンク先のひとつ」シリーズである。
[65]でご紹介したHP「工房Uncle Z」の土田善太郎さんの1年8カ月ぶりの個展のご案内です。 我々がタンザニアから帰国したのは昨年(04年)11月で、その頃、今回の個展が計画されていた。
大丸の案内状には「七色に輝く不思議な色調の世界」と記させているが、その輝きと恒例のルミナリエをオーバーラップさせることが、1年以上前に立案された企画コンセプトだったはずだ。
でも、今年(05年)のルミナリエは日程が12月9日から22日まで。従来よりも前よりにずらせたために、この個展とは21日と22日の2日間のみのオーバーラップになってしまったのである。
右上の肖像写真を撮影したのは土田ヒロミさん。著名なフォトグラファーであり、善太郎さんの双子の弟にあたる。二人は年を取ってもソックリさん。すこぶる仲のいい兄弟なのである。 七宝焼は、究極のところ「質感」ではないでしょうか。手でさわったりして楽しむものでは…
奥様の幸子さんのご努力でギャラリーのようなHPもありますが、やはり実物に触れていただきたいと思います。アクセサリーなどはデパートの売場でご覧いただける場合があります。 神戸も静かなクリスマスを…との声もあるようだが、年の瀬は賑やかな方がいい。
ルミナリエがもたらす経済効果を考えたら、交通渋滞ぐらいは我慢しようよ。
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[96] 売っているもの 売っているひと
http://yonezawa.exblog.jp/3844129/
2005-11-30T17:52:00+09:00
2006-04-18T23:37:46+09:00
2005-11-30T17:52:21+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
逆に今日のアフリカで、人もモノも動くことなく、情報も停滞している共同体を
見つけることは困難になってきている。
「現代アフリカ入門」 勝俣誠・著 岩波新書 SUPERMARKETという名のスーパーマーケットである。日本と同じで郊外型が多くなりつつある。 店内でカメラをかまえたら女性店員が次々と集まった。その陽気さが後方の男性に乗り移った。 こちらではウィグ(かつら)がよく売れるようで、無造作に大量陳列してある。値段も安い。 「ここがアフリカなのか」と思うような広々とした空間、美しいディスプレー、多彩な商品群。
日本ではハイパーマーケットは退潮ぎみだと思うが、ダルエスサラームには2〜3店舗ほど。 スイカ党公認の美枝子はこんなお店でよく買ったのだが、我々や使用人を含めると10人家族のワンブラ家では短時間でペロリ。30〜50円と安いが、味は日本のものが少し上か。でも、パッションフルーツやパパイアなど、日本では味わえない、おいしくって甘い果実がいろいろとあった。 同じ果実の販売だが、こちらはダルエスサラーム大学の売店。正面、上からスイカ、バナナ、パパイア、その左にマンゴー。左の棚にキューリ。手前に食パン。ファーストフードに群がる日本の大学生に見せたいラインナップである。マンゴーはその場で食べられるように剥いてくれる。 生産者直売店である。のどかで、楽しげである。 ダルエスサラーム都心部に行くと専門店が多い。左はウェディングドレス、右の店は何を売っているのか?…正解は発電器。10時間くらいの停電がちょくちょくあるこの街では必需品である。 天井から吊りさげられた釣り針を大きくしたような鉄棒、日本刀のような刃。これも商店! 使用人のエリーザさんに同行してもらって、ウブンゴというターミナルの牛肉屋へ買い物に行く。 店内は狭いのだが、中に入ってビビッと感じた。「写真を撮りたいと店の人に言ってくれ」と エリーザさんにあわてて言ったのだが、そんな日本語を彼女が理解してくれるはずがない。 気配で感じてくれて、撮影の許可を取ってくれた。すぐに、シャッターを押し続けた。 肉屋なのに冷蔵庫がない。汗をかきながら、こちらが指差した箇所を切りそいでくれる。 店の人の顔がいい。肉の色が艶めかしい。
【LOG in BLOG】05.11.21 お天気がいいので、六甲山の山上の神戸市立森林植物園へもみじ狩りに出かけた。 この森林植物園は、つつじ、桜、しゃくなげなどが評判なのだが、紅葉もなかなかである。 手入れの行き届いたカエデが「今が見頃ですよ」と待ちかまえていた。 カメラマンも大勢いた。久しぶりにエイト・バイ・テンというカメラにも出会った。 1940年に創設された総面積142ヘクタール。1200種(うち500種は外国産)の樹木は壮観である。 信州に行かねば見られないと思っていた白樺がここにもあるじゃないか。 ナナカマドの赤い実と青い空。この感じが好きなのである。 幼稚園生、みんな、男の子と女の子が手を握っている。こんな事、昔はさせてもらわなかったよ。 手回し良く、サンタクロースさんやトナカイも待機していた。 帰りは裏六甲側に下りて三田市へ。柿を買う。「柿よ、おいしくなれ」とタンザニア流の祈祷。
【LOG in BLOG】05.12.6 [88]でご紹介した我がblogの数少ないリンク先のひとつである「佐野由美オフィシャルサイト」の由美ちゃん(親しげな呼び方になりますが、生前、我が家で彼女と会っているのは娘の麻琴だけ)の画集が、11月、出版されました。由美ちゃんには文才があったために、神戸の大震災の体験本(「路地裏に綴るこえ」今でもよく売れている!)やネパール滞在の記録(「パタンの空より」素晴らしいNGO活動!)がすでに出版されているのですが、画集は初めてなのである。
実際に画集を手に取って、ずっしりとしたボリューム感に圧倒された。多彩な生活体験を反映した141点の作品。絵画から鉄の立体造形までバラエティ豊かな作品集に仕上がっています。
「佐野由美作品集」 発行・編集・制作 : シースペース 作品撮影 : 岡本吉史 3000円(税込) その作品集出版を記念して、11月29日から12月25日まで、神戸市兵庫区の喫茶店で「佐野由美作品展」が開催され、我々も駆けつけて拝見。「由美ちゃんは生きている!」を実感しました。
写真、右の方は銅版画家の中村ちとせさん。今回の佐野由美作品展は版画が多いのだが、彼女の協力によるものである。西アフリカのナイジェリア、ニジェール、カメルーンなどを3回ほど歴訪して、それを作品の表現に生かしている彼女は「今度はエチオピアに行こうかと思っています。ついでにタンザニアにも」とのことでした。ちとせさんも、由美ちゃんも、とにかくパワフル!
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[95] クルマと牛カツのはなし
http://yonezawa.exblog.jp/3706031/
2005-10-31T22:46:00+09:00
2006-06-08T11:30:56+09:00
2005-10-31T22:44:45+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
四輪駆動でなかったので、何か警告されるのではないかと迷いました。
でも、ベッドやガスレンジ、冷蔵庫を備え付けたワーゲンの快適さは正しい選択でした。
「サファリ 東アフリカ野生動物日記」ギュンター・ツィズラー アンゲリカ・ホーファー共著
舟木嘉浩・舟木秋子・訳 旺文社(1985年刊) 上記は編集顧問ニゲル・シットウェルの序文 「この写真なら、昔、見たことがある」と言われる方がおられるでしょうね。
左の女性は動物学者のアンゲリカ・ホーファー。この本での動物行動の描写が世間をアッと言わせた。背後の木立の中を雄のゾウが歩いている。そして、右のレトロな雰囲気のフォルクスワーゲンには家財道具一式を積み込んである。撮影がギュンター・ツィズラー。彼はこの本を契機に世界中の野生動物の写真を発表することになる。1981年、マサイマラ国立保護区での一枚。 (以下、我がサファリ、ンゴロンゴロ自然保護区の写真が3枚続きます)
冒頭の書籍「サファリ」にも書いてあるのだが、1980年代、すでにサファリ・カーと言えば、 英国車のランド・ローバーがいちばんの人気車であった。それがいつの頃からだろうか、多分、 この10年以内の現象ではないかと思うのだが、サファリ・カーも、タウン・カーも 日本車の時代になったのである。 (以下、ダルエスサラームでの写真になります) ダルエスサラーム空港に到着した時のことである。出迎えてくれたワンブラ医師に街路を見ながら 「タンザニアで走っているクルマ、ほとんどが日本車だね」と言ったら、「ほとんどじゃない。100%だよ」と彼は言って、ニヤッと笑った。日本人である我々へのお世辞なのかなと思った。 でも、そうでもないことが次第にわかってきた。何事につけ、100%というのは危うさが漂う。 それも日本で使っていた中古車をそのまま輸入する場合が多いわけだから、このように
日本でのオーナーが描いたペインティングがそのまま残っているクルマもよく見かける。 このトヨタのハイラックス・サーフの前に立っている長身のハンサムボーイはアマティ・ワンブラさん。ワンブラ医師の実の兄であリ、Bac companyという会社の社長さん。何をしている会社かわからないのだが、お金持ちである。ワンブラ夫妻と我々がザンジバルに行くとき、渡船場までワンブラ家のクルマで送ってくれたのだが、途中「ガソリンが足りないよ」と言って、自分のポケットマネーでガソリンを補充してくれた。そんな時、タンザニアでいちばん売れっ子の内科医であるワンブラさんが、いかにも「弟」という顔になる。仲良しの兄弟なのだ。 アマティさんは我々にスワヒリ語を丁寧に教えてくれたし、日本の文化にも興味を持っていた。 奥様も素敵な方で、一緒に食事をするのが楽しみだった。これは牛カツをご馳走した時のもの。 写真、右側がアマティさんの奥様、左がフローレンス夫人。
【LOG in BLOG】05.11.4〜5
「旅芸人の記録」
映画の題名みたいだが、11月4日から5日にかけて体験しましたことを記録します。 [94]の【LOG in BLOG】で予告を入れたのだが、「東アフリカのトーク&ライブ」早川千晶、大西匡哉、サカキマンゴーの三人組が1カ月半にわたって、日本全国、旅まわりしました。
これは終盤の2日間を「追っかけ」した記録である。4日夜は三人組に我が家に泊まってもらい、「民宿のおじさん、おばさん」も経験しました。写真はすべて5日のハービスプラザでのもの。 4日午後3時30分、早川千晶が神戸市灘区の海星女子学院で高校の社会福祉グループの生徒8人の前でキベラの子供たちについての講演をする。生徒たちはこの1年間、キベラの子供たちへの助成金を集める取り組みをしたいとの抱負を述べる。たくましい!…サイドで見ていた我々の感想。 同日午後5時、西宮市の関西学院大学の中央芝生で「AFRICAN MUSIC JAMBOREE」が始まる。大西匡哉とサカキマンゴー、そして、南アフリカ共和国出身で日本在住のマリンバ奏者のジョセフ・ンコシの3人が3時間以上にわたる熱演。寒くて、まっ暗がりの中、学生たちは踊り狂った。 イベントが終わり、我が家に集合したのは午後11時すぎ。三人組は疲労こんぱい。短めに酒盛り。
アフリカで食べられないのはレンコンだけという話になって、急遽、レンコン料理になったり… 翌日(5日)の朝9時、サカキマンゴー運転、大西匡哉ナビゲーションのワンボックス・カーに、楽器、PA、パソコン類、生活用品を積み込み、荷物の間に早川千晶が乗り、我が家を出発する。
大阪市北区梅田のハービスプラザの広場で大西匡哉とサカキマンゴーの31歳コンビが、午後0時30分と午後3時30分の2回、演奏する。好天にも恵まれ、常連客、通りがかりの人たちを魅了。 大西匡哉はケニアのドゥルマ民族の太鼓、サカキマンゴーはタンザニアのゴゴ民族のリンバ…
国が違い、流派が異なっているのだが、この二人、いつも不思議なぐらい息があう。 大西匡哉がケニアのダンスを披露すると、それに乗せられて観客も踊る。 これはタンザニアで古くから伝わる病気などを治す音楽による祈祷である。
この時、美枝子はダイエットを祈願したが、今のところ効果が出ていない。 特筆したいのはCDが売り切れたこと。販売係の早川千晶が「ごめんなさいね」と謝っている。
キベラの子供たちの歌「TWENDE NYUMBANI」は、今後は日本でのプレスになるらしいが、早くても12月にならないと手に入らないようだ。この日は注文だけを集める。 サカキマンゴーのソロアルバム「limba train」、大西匡哉が録音した力作「SENGENYA」は、この日でともに完売する。彼らは自分のCDが売れるたびにサインをサービスする。 午後5時45分、早川千晶のスライドを映しながらのナイロビのスラム街のキベラの講演となる。
「スラムとは何か」など、多岐にわたっての話しだったのだが、ひとつ、エピソードを。
[24]と[25]で述べたように、キベラのマゴソスクールの子供たちは素晴らしい歌を聴かせてくれるのだが、今年6月、学校対抗の音楽コンテストに出場することになった。伴奏は生徒が叩く太鼓だけ。きれいな舞台衣裳も作った。で、結果なのだが、地区大会は初出場で見事に初優勝。そして、県大会は各人がノリノリで力みすぎて第4位だった。全国大会は出場できなかったのだが、次回の必勝を期している。出場校はもちろん経済的に恵まれた学校が多いわけだが、破れた運動靴を履いた彼らの元気いっぱい歌が高く評価されたのである。頑張れ、キベラの子供たち!
この翌々日(7日)、早川千晶と大西匡哉はケニアに帰国する。
サカキマンゴーは関西を中心に演奏活動を続けている。
なお、我々のステイ先のワンブラ医師は2年間ほど、大阪外大スワヒリ語科の講師を
していた時期があり、その時、サカキマンゴーは教えてもらったと言ったので、
このハービスプラザでの写真を添えて、E-mailで問い合わせたところ、
タンザニアからこのような返信が届いた。
「Sakaki san wa yoku oboete imasu. Wambura」
サカキマンゴーって、結構、印象的な生徒だったのだ。さすがだなぁ〜! JATA toursの根本社長から、11月24日、こんなE-mailをいただきました。いい話しです。
ダルエスサラームは今小雨季のさなかで雨足が遠くから近づいてくるのが良く分かります。
雨が過ぎた後はさっと涼しくなるのですが、しばらくするとムッとした暑さが蘇ります。
ブログにマンゴーさんや千晶さんの写真が載り、拝見しました。
今回はザウォセの娘さんの訪日とマンゴーさんたちのツアーが微妙に合わなかったので、
共演は実現しませんでしたが、次回は何とかと思っています。根本利通
(楽しみだなぁ、来年が。プロモーターとしての根本社長、よろしく、よろしく)
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[85] おしゃれ髪型への長い時間(2)
http://yonezawa.exblog.jp/2950626/
2005-06-17T11:42:00+09:00
2006-11-20T16:30:39+09:00
2005-06-17T11:43:20+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
お馴染み、三つ編みの細いのをいっぱい作ったもの。それらを束ねて形を作ったもの。
ぴんぴんと鼠の尻尾のように立ったものなど、井戸端会議をしながら作りあげてゆく。
仲良くのんびりと作っている様は、のどかで楽しそうだ。
「おいでよ アフリカ」 板垣真理子・著 晶文社 [03]で書きましたように、今回の旅行は「人体実験」を試みようというのが基本にあります。
三つ編みの髪型にしても、ただ見たり、写真を撮ったりするだけでなく、体験しなくちゃ…と。 そのチャンスが訪れました。ステイ先のワンブラ家のすぐ隣りの家の軒先に評判の髪結いさんが臨時店舗を設けました。クシやハサミを使うだけで、溶液もいりませんので、出店は簡単です。 前回も書きましたように、とにかくむやみに時間がかかる作業ですので、ダラダラに乗って美容院に行き、結ってもらうのは、負担に感じていました。たまに洗髪には行っていましたが… さて、始めてみたら、いくつかの問題点はありました。短くて、ストレートな髪は腕利きの髪結いさんでも、かなりやり難くそうでした。縮れ毛で長髪の方のほうが具合がいいようです。 でも、器用に仕上げてくれました。ワンブラ家の使用人らがそばで見ていたので、手を抜くことはできなかったのでしょう。プロに髪を結ってもらうことのない子供たちには垂涎の的でした。 3時間たらずの手慣れた作業で、代金はなんと200円。これは外国人料金で地元の方なら半額くらいに。芯に入れる紐代として別途に200円でしたが、何度かに分けて使えるような量でした。 さて、髪型ができあがって、スグには感じませんでしたが、頭がかゆいのです。ジンワリと。 でも、2日間ほど我慢していましたが、若い二人の使用人がちょっとヒマそうにしていたので、ついつい「この髪、ほどいて」と言ってしまいました。ほどくのは簡単でした。15分ほどで。 体験的髪型チェンジ、終わりました。あ〜あ、何とも言えない開放感!
【LOG in BLOG】05.6.10 前回に引き続き、「東アフリカの風」の報告です。サカキマンゴー(写真上)と大西匡哉(写真下)という二人の若いアーチストの競演だったのだが、これがピッカリ! 聴きごたえありました。 サカキマンゴーはバガモヨのザウォセ氏を師事したタンザニア派、太鼓の大西匡哉はケニア派。
両者ゆずらぬ好演・熱演でした。我々はタンザニアもケニアもスワヒリ文化としてひとつのものとして考えてしまいがちですが、ウ〜ン、違うのかなぁ…と思わせるような演奏会でした。 会場で売られていたCDを紹介します。
「SENGENYA Traditional Music of Duruma,Digo and Rabai」(2005年6月1日release)
アフリカにおける伝統音楽は貧しさゆえに消失しているものが少なくありません。そんな環境の中で、ケニアの南東部、モンバサの南のミリティーニ村の巨匠・マテラ氏は、伝統音楽の重要性を説きながら、新しい音楽の創造にも傾注するミュージシャンである。彼と出会った大西匡哉は決して豊かではないミリティーニ村に定住し、ドゥルマ民族の伝統音楽を学ぶこととなる。
今回の「センゲーニャ」はマテラ氏の呼びかけで集まった200人以上の音楽家がグループごとの競争意識をもって、互いに刺激を与えながらの収録となった。録音とサウンド編集はすっかり住人になりきっている大西匡哉があたっている。解説文と写真撮影は早川千晶が担当している。
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[84] おしゃれ髪型への長い時間(1)
http://yonezawa.exblog.jp/2912041/
2005-06-10T23:45:00+09:00
2006-11-06T23:27:08+09:00
2005-06-10T15:40:05+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
長くのばして紐といっしょにふとい三つ編みにし、皮製の鉢巻をしめている。
一種の鑑賞品と化したも同然で、彫像のように人から眺められていた。
「アフリカの日々」 アイザック・ディネーセン・著 横山貞子・訳 晶文社 わんぱく小僧四人組と言いたいところですが、この写真にはひとり女の子が混じっています。
どの子が女の子かわかりますか。ヒントは「髪型」です。
正解は右端のザマラーディちゃん。5歳の女の子です。左耳の上にチョンマゲが覗いています。 後ろから見るとこんな感じです。素晴らしい髪型でしょう。 ビューティフル! おしゃれ!
あらゆる讃辞を贈りたいと思います。左の男の子のいがぐり頭が妙に素朴に見えますでしょう。 実はこのような髪型にするためには、母親、ママザマラーディさんの愛情がこもった、涙が出てくるような努力があるのです。娘としても久々の母親とのスキンシップの時間なのです。 基本は、冒頭のディネーセンの文章のごとく「長くのばして紐と一緒に三つ編み」なのです。
この親子はマサイ族ではありませんが、どの種族も基本は三つ編みでした。 紐はアクリル製の丈夫な専用の糸を使います。右寄りのハサミの上にあるのが編み込み用の紐です。ザマラーディちゃんは眠っているように見えますが、痛くて眠るわけにはいきません。 ママザマラーディさんは手慣れていますが、2日掛かり、延べ4時間ほどで仕上げました。
【LOG in BLOG】05.6.10 ケニアとタンザニアの音楽と文化に親しむための「東アフリカの風」というイベントが、本日、神戸市灘区で開催され、30人ほどの会場は満席となった。結論から言って、素晴らしかった!
早川千晶さんは北川孝次さんの写真を基にマサイ族の若者たちの暮らしについて語りました。
サカキマンゴーさんがタンザニアのゴゴ民族のリンバを演奏、大西匡哉さんがケニアのドゥルマ人の村の伝統的な太鼓を演奏…ともに若さあふれる熱演だった。次回 LOGで詳報を入れます。 Big Newsです。このblogをご覧の皆様にはお馴染みのキベラの子供たちのCDが出ました。
録音場所はマシモニ小学校で、曲目は主としてゴスペルです。キベラについては左欄のカテゴリの「キベラの子供たち」をクリックしするか、[24][25]をご覧ください。
*このCDの録音した時のことを早川千晶さんがウペポのHPに書いておられます。
レコーディングの最終日、複雑な気持ちになり、涙が止まらなくなった。
小さな無邪気な子供たちなのに、何でそんな仕打ちを受けなきゃいけないの?
それなのに、どうして、あんなに明るい声で
「神様すばらしい」「神様ありがとう」って歌うことができるの?
[60]に載せました、我々、投稿者の唯一の年上の肉親である笹子ばあちゃんが何度かの入退院の末、6月4日他界しました。89歳、天寿を全うしたと言えるでしょうが、寂寥感はあります。
ということで、入稿の間隔が広がりました。あしからず。
タンザニアのワンブラ家から弔文が届きました。英語、スワヒリ語、日本語のミックスです。
Anata wa pole sana, Very Very sorry for grandmother death pole sana.
Gomenee minasani pole sana.
<スワヒリ語の和訳> pole=お気の毒に、可哀相に sana=非常に、たいへん
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[79] “民族衣装”カンガとキテンゲ
http://yonezawa.exblog.jp/2643108/
2005-05-02T23:54:00+09:00
2006-06-22T13:15:26+09:00
2005-05-02T23:54:39+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
そして、毎朝、なぜ服を着るのかしらと思う。
布を巻くだけで誰も気にしないじゃないの。
映画「名もなきアフリカの地で」 脚本・監督 : カロリーヌ・リンク
縦1.16m、横1.68mの布が2枚で1組。
カンガはタンザニアから広がったスワヒリ文化圏の民族衣装だ。
日常生活では女性の作業衣としてズボンやエプロン代わりに巻く。
葬式では腰に一枚、もう一枚を頭からかぶるのが正装である。涙もふけるし、
義理で出席している人は悲しくもない顔を隠すのに便利だ。
「おしゃべりなタンザニア」 木村映子・著 東京新聞出版局 上の写真はケニアのナイロビ郊外のお土産物屋であるが、周りに大きな亀がウロウロしていた。店内に亀が入ってこないように石でガードしてある。売っているのは手作りの人形なのだが… 鮮やかな衣裳をまとったマサイ族である。そして、ご注目いただきたいのは四角い布を肩に掛けていることである。これがスワヒリ文化を象徴するカンガであり、キテンゲなのである。 タンザニアやケニアで、ある時は普段着として、ある時は儀式の正装として利用されている
おしゃれな民族衣装である。じゃ、カンガとキテンゲ、どこがどう違うのだろうか。 カンガは1色からせいぜい3色でプリントされたものである。1枚が150円ほどで売られている。 キテンゲは多色でデザインも複雑な物が多く、厚手の材質になる。値段もカンガの2倍くらい。 いろいろな使い方があるのだが、これは赤ちゃんをおぶるための背負子(しょいこ)として。
もうすぐ3歳になるのに、ミッシェルちゃんはこの甘ったれたポーズが大好きなのである。 二人がかりで美枝子のヘアのお手入れの図である。
左が18歳のエリザさん、右が16歳のエリーザさん。二人ともカンガを巻きスカートにしている。使用人たちにとっては仕事着として重宝している。彼女たちはかなり多数のカンガを持っていた。 ミッシェルちゃんのような子供は全身を覆う衣裳になる。大人も風呂上がりなどにはガウン代わりに。複雑な着こなしとなるが、女性の水着になったり、バケツを頭に乗せる時の台座にも。 これはホテルの朝食バイキングの食材だが、ディスプレイのツールとして、しばしばカンガが利用される。その用途は無限大と言ってもいいほど。日本では壁掛けなどで利用されています。
以下、手もとにあるカンガ4枚、キテンゲ2枚を並べます。カンガにはスワヒリ語やアラビア語で諺(ことわざ)が書き込まれています。その文字が見えるように着こなすのがコツです。 上はサッカーボール。下は優勝カップ。その間に書かれている言葉は「人生は勝つこと」
【LOG in BLOG】05.4.16 前回に引き続き、4月16日に東灘区民センターで開かれた「タンザニア ミュージック コンサート」の報告です。バンド演奏ともうひとつ、カンガのファッションショーがありました。 デザイナーズスクールの生徒によるカンガを素材にしたファッションコンテストもあり、学生が自らモデルにもなり、発表しました。舞台、シーリングから垂らされている布もカンガです。 右の女子学生がコンテスト優勝者。賞品はタンザニアご招待旅行。彼女が身に着けているキテンゲは、上掲、本編の最後の写真と同じシマウマ柄である。左はタンザニアのムタンゴ在日大使。
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[78] コーヒーのはなし
http://yonezawa.exblog.jp/2563506/
2005-04-21T21:44:00+09:00
2006-06-11T01:11:59+09:00
2005-04-21T21:42:46+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
この高地の百マイル北を赤道が横切り、農園は海抜六千フィートを越える位置にあった。
昼間は太陽の近くまで高く登ったような気がするが、
明けがたと夕暮れは涼しくやすらかで、そして夜は冷えびえとしていた。
「アフリカの日々」のイントロダクション
アフリカの魅力を享受することにかけては希代の感受性を発揮した
ディネーセンは、しかし農園経営者としては失格だった。
四十代のなかばを越えて、いままで生きてきた基盤を根こそぎくつがえされ、
ディネーセンは失敗者、破産者としてデンマークに帰る。
「アフリカの日々」の翻訳者の解説
「アフリカの日々」 アイザック・ディネーセン・著 横山貞子・訳 晶文社 16回に分けてキリマンジャロ登山のことを述べさせていただきましたので、ここでひと息、コーヒー・ブレイクします。上の写真はケニアの避暑地での喫茶店。このようなアウトドア型が多い。 全日本コーヒー協会のHPにおもしろい統計がありましたので、その中から2つ紹介します。
<コーヒー輸入国の消費量>アメリカ、ドイツについで、日本は第3位。イタリア、フランス、イギリスよりも多い。赤ちゃんから老人まで平均して、一人の日本人が1年間に321杯のコーヒーを飲んでいるとある。東洋人としては珍しくコーヒー好きな民族と言えるでしょう。
<コーヒー生豆の国別輸入量>ブラジル、コロンビア、インドネシア、エチオピア、グァテマラ、ベトナムについで、タンザニアから日本へのコーヒー輸入量は第7位。ブラジルやコロンビアからの輸入量と比べたら10分の1以下で、あまり多いとは言えない。アフリカでは「モカ」の産地のエチオピアに次いで第2位。ただし、取引されている金額を見ると中米のグァテマラに次いで、タンザニア産は第2位の高い単価で輸入している。さすが「キリマンジャロ」のブランド力か。
上の写真はナイロビ市街地のレストラン兼ティールーム。簡単なフェンスで歩道と仕切ってある。 そもそもコーヒーは東アフリカ、現在のエチオピアの野生の木の実をアラブ人が持ち帰り、飲むようになったらしい。1000年ほど前、覚醒剤として、そして、元気の出る飲みものとして。
ずっと後になって、ブラジルなどで本格的に栽培されるようになり、アフリカで栽培されるようになったのは、20世紀に入ってからである。だから、この項のトップの「アフリカの日々」のコーヒー農園の話しは開拓者的な役割を担っていたと思うし、後にコーヒーに適合していない土地であることがわかったりするのだから、ディネーセンは苦労人であることには間違いない。
ンゴング丘陵というのは、ケニアの首都ナイロビの近郊で、彼女が15年間滞在した所である。
上の写真はホテルのゆったりとした喫茶コーナー。ここで飲み物の支払いを2倍に請求されたことがあるのだが、神戸俊平先生が同席していて、彼が追窮したら支配人まで出てきて謝罪した。 キリマンジャロで最初にコーヒーを栽培したのは、1903年、ギリシャ人である。高地であることと火山としての土質が適合していて、おいしいコーヒーが生産できることがわかり、急速に開拓が進む。現在、タンザニアから日本への輸出は第1位がコーヒー、第2位が綿花となっている。
コーヒーの品質の良さを表現するために「高地産」という言葉をよく使います。
では、なぜ高地がいいのか…一般に、次の4つの理由(条件)が言われています。
1 . もともと高原に自生していた野生の植物であるから環境的に適合している。
2 . 高所は雲や霧が発生しやすく、熱帯特有の強い陽差しを柔らげて熟成させる。
3 . 気温が下がるために、ゆっくりと時間をかけて果実を生長させる。
4 . コーヒーは病虫害に弱いのですが、発生率を低くすることができる。
上の写真は博物館の喫茶部のウェイトレスです。娘の佳織が「zuri(きれいよ)」と言いながら… では、そのタンザニアの人々はどのようにしてコーヒーを飲んでいるのかと思ったら、あまりコーヒー党がいないことがわかった。喫茶店でも学生食堂でもコーラなど、炭酸飲料が人気だった。家庭でもティーバッグが安く売られているためか、コーヒーは目立たない存在である。
そんな中で最もよく飲まれていたのが「アフリカフェ」というインスタント・コーヒーである。日本でも販売されていますので、機会があったら飲んでみてください。Pure(純粋)な味です。 ブレンド・コーヒーは飲み飽きた。ストレート・コーヒーを飲みたいと言われる方には、この「ミルカフェ」のエスプレッソがお奨めです。強く爽やかな酸味、濃厚なコク、個性的な香り、しかも甘味が程良くあり…まさにキリマンジャロそのものである。ただし、これはダルエスサラームのスーパーマーケットで買ってきたもので、日本で購入できるのかどうかわからない。
エスプレッソはポンプ式の器具で抽出しますが、通常のレギュラーコーヒーはペーパーフィルターを用いた電動コーヒーメーカーが日本では普及しています。でも、タンザニアで見かけませんでした。[08]で書きましたように電圧が不安定で電化製品が故障しやすいということがあります。2年前、ワンブラ医師が日本からタンザニアに帰国する時、冷蔵庫を2台も買って帰ったのですが、我々が訪れた時にはすでに1台が故障していました。そんな感じで彼らは電化製品の購入を渋ります。でも、テレビやパソコンは日本人以上に好きではないかと思いました。 今、日本で最も手軽に飲めるキリマンジャロは、2月にJTが新発売した「タンザニアン・ブルー」という缶コーヒーです。「キリマンジャロ豆100%」という表示があります。
ティンガティンガという絵画を使ったテレビCMやポスターが素晴らしく、ポスターは見つけ次第、盗んでやろうと企んでいますが、まだ実施のチャンスがありません。
【LOG in BLOG】05.4.16 東灘区民センターで開かれた「タンザニア ミュージック コンサート」の報告を2回に分けて。 まず、African Expressというバンドですが、ヴォーカルとキーボードにタンザニア人が2人、ドラムがコンゴ人。あと、ギターやパーカッションに日本人2人が加わるといったメンバーで、楽しく賑やかなコンサートでした。タンザニアの2人は現地でも人気のミュージシャンとのこと。 フィナーレで演奏した有名な曲「ジャンボ」の時には場内総立ち、お客さんが舞台に立つという騒ぎとなった。ほとんど宣伝していない催しにしては観客が多かったと思います。
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[61] ダラダラという乗り物
http://yonezawa.exblog.jp/2050693/
2005-02-17T22:22:00+09:00
2006-04-18T16:34:13+09:00
2005-02-18T02:49:56+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
しかし、単なる交通機関以上の役目を担っている。
庶民文化の象徴で流行風俗発祥の源とも言われている。
「アフリカ日和」 早川千晶・著 旅行人・発行 ケニアで「マタトゥ」と言っていた乗り合いバスが、タンザニアに来たら名前が違っていた。 「ダラダラ」と呼ばれていた。二国ともスワヒリ語国であり、生活習慣もよく似た国なのに、 なぜ、乗り合いバスの呼び方だけが違うのだろう。ケバケバしいボディペインティングをした ケニアのバスに対して、タンザニアはボディにCity Busと書いてあり、我々には馴染みやすい。 ケニアでは一度も乗らなかったのだが、ダルエスサラーム大学のきれいな景色の中を走っている ダラダラを見ていると乗りたくなった。ワンブラさんは「あれに乗るの?」とたしなめていた。 乗ってみたら、早川千晶さんが書いているように庶民感覚が素晴らしい。乗客が後ろの席から
埋めてゆき、補助席に至るまで有効に利用することに協力していた。マナーがいいのである。 小さなバスなのだが、車掌がいて切符がもらえる。乗るたびに切符の色が違うので蒐集した。 しかも、何処まで乗っても15円。最高1時間乗ったこともある。市内見学をして15円である。 ここはウブンゴというターミナル。ターミナルでは乗りたいダラダラを探すのが大変なのだが、
大声で行き先を言うと「あっちの方に停まっている」と乗客や車掌が指さして教えてくれる。 ターミナルには野菜や果物を売る商人も並ぶ。それを値切りながら買うのが、また楽しい。
【LOG in BLOG】05.2.17
「5年間のアメリカ留学を終えてケニアの生まれ故郷に帰ったら、川におたまじゃくしがいなくなったことに気付いた。その事が私のグリーンベルト運動を始めた動機になっている。」
ノーベル平和賞受賞のワンガリ・マータイさんが14日に来日し、16日の京都議定書の基調講演を行い、今、日本のマスコミに登場している。良いタイミングの来日だし、日本として鉢巻きを締め直して環境問題に取り組まねばならない時期に来ていることは確かだ。
延べ約8万人、約3000万本の植林活動は偉大なことである。その背後に勤勉で緑を愛するケニアの女性たちの姿が浮かぶのだが、この活動が日本だったらどうなるのかと考えてしまう。 上の写真はナイロビの郊外のレストランでトイレに行く途中で撮ったものだが、従業員の控え室に行く通路の脇にこのような植え込みがあった。緑に対するケニアの人々の想いとか執着を、我々はもっともっと学び取らねばならないのではないでしょうか。
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