ポーターたちにとってキリマンジャロ行は日常の延長に過ぎない。
苦労して山頂に行く必要も感じないし、頂上に万年雪があろうがなかろうが、
その中にヒョウが眠っていようがいまいが、
そんなことは暇な外国人のお遊びに過ぎないのだ。
「空はアフリカ色」 松本仁一・著 朝日新聞社・発行
前回ブログの最終写真もそうだったのだが、上に載せたような登頂記念写真は10枚ほど撮った。
我々の後から登って来たパーティーのガイドがバチバチ撮ってくれた。デジカメに慣れた若いガイドだった。5枚ほど撮った段階で、ガイドのヘディックさんに「僕ひとりの写真を撮らせてくれ」と言った。でも、彼は頑なにそれを拒否し、その場から動こうとしなかった。62歳、ベテランガイドの信念なのか。僕にとっては記念的な出来事であり、この登山の最終段階でヘディックさんが最大の協力者であることは認めるが、彼だけがこの誇らしい行為の貢献者ではない。
キボ・ハットに待機している4人のポーター、そして大勢の人達にお世話になったことを思った。
さて、下山である。則二としては若い頃からの「特技」がある。石ころがゴロゴロしている所でも走りおりるのである。ヘディックさんだけでなく、他のパーティーのガイドも注目してくれた。光栄にもRunning Japani(走る日本人)というニックネームをいただいた。
午前10時10分、キボ・ハットに到着した。4人のポーターたちと握手。結構、喜んでくれた。
則二は65歳。山小屋の登録時に確認したが、今回、同時に登った人たちの中で最高齢だった。「年寄りにしてはよく登った」と思ったのだろう。
昨夜のベッドに再度もぐり込み、1時間ほど仮眠する時間となったが、寝不足のはずなのに登頂の興奮が冷めていないためか眠れなかった。
なお、同室の50歳ぐらいのイギリス人2人組の内の1人が5000m付近で高山病になり、ガイドに連れられて下山していた。隣りのベッドでビニール袋に入った液体を鼻や口に押しあてるようにして酸素吸入をしていた。でも、危険な状態を脱出するために我々より少し遅れて、この日の内にホロンボ・ハットまでおりた。上の写真、約50km彼方のメルー山が近そうに見えている。
ホロンボ・ハットまではルンルン気分で、午後3時前には到着。夜中の0時から15時間にわたる過酷な一日を終えることができた。バンガローでくつろいでいたら、サッと雨が降り、虹が出た。
目線よりも低い位置で、虹が色濃く、鮮やかに輝いていた。
夕刻、いい天気だった。それなのに、この日の夜、狂ったように風が吹き、雨が降ったのだ。
なお、2泊目とこの4泊目と、2回も同室となったスペイン人の30歳前後の3人組若者は他のパーティーの若い女性にアプローチするなど、元気いっぱいなところを見せていたのだが、3人とも5000m以上の高所に行ってから調子を悪くして、ギルマンズ・ポイント(5690m)で折り返していた。この夜、則二がウフル・ピークに登ったことを伝えると大変うらやましがった。
【LOG in BLOG】05.3.21
広島県福山市の南端の観光スポット。瀬戸内海の中心部ということで「潮待ち」の港として中世から栄えた鞆の浦に行きました。左から朝靄に霞む仙酔島、弁天島、皇后島をホテルの窓から。
箏曲の宮城道雄は父の出身地である鞆の浦をイメージして「春の海」を作曲したとされている。
鞆の浦は江戸時代にも繁栄し、その街並みが昔のまま残されています。蔵や納戸に古い雛飾りが保存されているということで、3年前から「街並ひな祭」という催しを開催。今年も2月17日から3月27日まで、商店、食堂、旅館など、街のあちこち80カ所で珍しいお雛さんを展示しました。
保命酒を醸造していた太田家という国重文の遺跡に展示してあった江戸時代の雛飾りである。
お茶屋さんに飾ってあった昭和15年のお雛さん。手前に購入した時の領収書も置いてあった。