奴隷市場がたつ日は、汚れた体を洗わせ、油を塗って見映えようし、数人ずつ台に立たせた。
買い主は体の肉をつまみ、飛び上がらせたりした。医者に眼と口と生殖器をよく診させた。
歯を見ては齢に偽りがないか、生殖器を診て梅毒にかかっていないか、痛がるほど検査した。
病人、老人、体力のない者はそこで放り棄てられ、買い手の決まった者には焼ごてをあてて、
刻印を入れる。その瞬間、肉の焼ける臭いがし、痛みが全身に走るんじゃ。
「沈まぬ太陽 (アフリカ篇)」 山崎豊子・著 新潮社
[80]の「奴隷の少女の物語」でも物語りましたように、タンザニアの奥地から連れられて来た奴隷たちはバガモヨに集められ、その後、船でザンジバルに運ばれてきていた。その頃、ザンジバルは東アフリカにおける海洋帝国の首都となり、奴隷貿易の中心地になっていたのである。
ストーンタウンはアラブ人たちの体臭がプンプンと臭ってくるような街であるのだが、彼らの心のよりどころであるモスクは、現在、郊外の緑地の中にひとつ残されているだけである。
しかも、ドームの中は探検家の遺品が少し展示してあるだけで、宗教行事は行えないようになっていた。ザンジバルにおけるアラブ人の時代はすでに終焉しているのである。
イギリスは奴隷貿易の禁止を求め続け、
1873年、ザンジバルとオマーンの両国と、
奴隷売買を止める条約の締結に成功した。
ザンジバルの奴隷市場は条約が結ばれた日に閉鎖され、
後に、その場所には教会(Cathedral Church)が建てられた。
「新書アフリカ史」 福田安志・著 講談社現代新書
これはザンジバルでもっとも有名な景色であろう。でも、予期していた以上に言葉を失った。
背後は大聖堂(Cathedral Church)である。Anglican Church(英国教会)とも呼ばれる。上記の条約締結(1873年)の年から8年がかりで建てられている。600人が一堂に礼拝できるし、結婚式も多いらしい。その前庭の芝生の中に1メートルぐらいの深さの四角い穴が掘られているのだ。
この5人の奴隷たちはそれぞれ違った方向を見ている。その視線の先には何があるのだろうか。
スワヒリ語で「KUMBUKUMBU YA HISTORIA YA WATUMWA」
KUMBUKUMBU=記念碑 YA=of HISTORIA=history=歴史 WATUMWA=slave=奴隷
その下に、英語で「MEMORY FOR THE SLAVES」
忌まわしい過去を葬り去ってはいけないのだ。この像を歴史の証人として、いつまでもここに…
ここには奴隷たちを収容する地下室も残されていた。小さな窓から僅かな光が差し込んでいた。
19世紀以降、イギリスという国は、この東アフリカで実にうまく立ち回ってきた。
国王というよりも商人として誉れ高い
オマーン王国のサイイド・サイードもイギリスには気を許していた。彼の最期は「ビクトリア号」という英国名の戦艦の上であったが、その後のオマーン勢はイギリスに重圧をかけられた。彼の遺産を受け継いだ者たちは内乱の末、オマーンとザンジバルを分裂させ、別々の道を歩むことになるのだが、1964年、彼らは追い立てられるようにして、300年におよぶ支配を捨てて、着のみ着のままでザンジバルを去っていったのである。
そして、イギリスは戦利品のごとく、ストーンタウンに次々と教会を建てたのである。
これは建築家ベランジェが設計したローマ・カトリック教会。ストーンタウンのほぼ中央にある。
上載の大聖堂はアラブ風様式を取り入れているが、このカトリック教会は正統派である。
この教会は聖職者の彫像がいくつかあるのだが、その中にインドやマラッカを経て、日本の鹿児島、平戸、京都を訪れた東洋布教の開拓者フランシスコ・ザビエル(1506-52)のものもあった。
素晴らしい教会群ではあるが、イスラム教徒を廃絶するための手段に見えた。
【LOG in BLOG】05.8.4
[73]と同様に、今回は涼を求めて、広島県福山市の鞆の浦に行った。
仙酔島の上から月光が海面を彩った。
仙酔島では海水浴客にタヌキが馴染んでいると聞いていたが、さほど近づいてくれなかった。
六甲山のイノシシの方が友好的だ。見た感じは恐いのだが…