TANZANIA & KENYA
2007-04-04T19:31:46+09:00
yonezawa02
爺(ジジ)さん! 頑張ってネ。
Excite Blog
[117] バブミッシェルの闘病記(11)
http://yonezawa.exblog.jp/6603406/
2007-03-14T21:55:00+09:00
2007-04-04T19:31:46+09:00
2007-03-14T21:46:20+09:00
yonezawa02
闘病の日々
3月2日(金)〜3月9日(金)
秋田地方気象台が発表した今冬のまとめは、まさに異常ずくめ。
真冬日の日数や平均気温、最深積雪、降雪量などの数値は、
観測史上に残る大暖冬だったことを裏付けている。
秋田の冬がこれでいいのか、と怒ってもしょうがない。
地球温暖化が迫りつつある危機に、われわれはどう対処すべきなのだろうか。
「秋田魁新報」の第1面「北斗星」から 2007年3月4日朝刊 今、話題の飛行機に乗った。
胴体着陸など最近トラブルの多いDHC8型機である。プロペラ機は久しぶりだったので、結構楽しめた。伊丹から1時間半、大館能代空港に無事着陸。秋田県なのに空気がナマ暖かい。 東京在住の娘二人が最初の2日間のみ同行した。左がエディトリアルK、右はグラフィックM。
彼女たちは岩盤浴も好きだったが、それ以上に、少なめの雪景色を見ることで満足していた。
左寄りの手前の機器はガイガーカウンター「はかるくんDX-300」である。よく働いてくれた。 バス道はキチッと整備されていたが、一般の乗用車の乗り入れは許されていなかった。 大きな雪だるまが何か話しかけようとしていたのだが、その意味が3日目の夜になって判明! 突然、雪が降り始めたのである。周辺の音をすべてかき消すように、静かに降り続けた。 7日午前6時まで24時間の降雪量は、秋田市でも4cmの雪が降った。
同市で1cm以上の降雪があったのは先月16日以来。
登校の児童たちは防寒着に身を包み、足元に注意を払いながらも、
久しぶりの雪の感触を楽しんでいるようでもあった。
「秋田魁新報」の記事「県内久々の銀世界」から 2007年3月7日夕刊 降り始めたら、さすがは雪国である。しつこく、しつこく、これでもかと降り続ける。後半の5日間は外出できないほどであったが、ちょっとした晴れ間にはカメラを持って外に出た。 念願の「雪の玉川温泉」である。アイゼンを着けた登山靴で歩くのは自重したのだが… 雪景色は堪能した。無数にある噴気孔からのガスが周囲の寒気で曇らせ、雪肌に紗をかけた。
これは玉川温泉の大浴場である。 こちらは新玉川温泉の大浴場の中にある人工岩盤浴である。冬なのでガラス戸で遮断されているが、それでも寒気が流れ込んでくるために、かなり寒い。床材の石盤に北投石のようなものが付着していて、ラジウムを発生している。最高1.75マイクロシーベルトもあるのだ。
ということで、今回のラジウム湯治はこの人工岩盤浴に徹した。 芋、たまご、ニンニクなど、現地では食べきれないほど、蒸し焼きをした。 新玉川温泉から玉川温泉まで、夏だったら10分で歩ける距離なのだが、この戦車のような形をした雪上車に乗って、ゆっくりと15分間、山間の道を遠回りして移動しなくてはならない。 この雪上車は何とハンドルがない。急坂の雪道の上り下りでは並はずれた力強さを発揮した。 帰路、立ち寄ったお土産物屋には、なまはげが現れた。包丁まで持って客を恐がらせていた。 田沢湖高原のホテルでは、津軽三味線のライブを聴くことができた。地元ファンが大勢いた。 東北の冬の味覚と言えば、このハタハタを思い付くのだが、8日間の滞在中に一度しか食卓にのぼらなかった。ばん回する意味で、秋田市内の魚市場でハタハタを買って帰ろうとしたら、なんと「兵庫県産」と表記してあった。ビックリした。兵庫県って、何でもあるのだなぁ!
3月16日(金)〜4月4日(水)[速報の中の速報] 地名がたまたま、「玉」シリーズになります。
三月なのに、まるで真冬の雪国の状況を体験させてくれた玉川温泉から神戸に帰って一週間後、今度は本州でもいちばん暖かいと思われる岡山県南部、瀬戸内に面した玉野市に来ています。
この玉野市のD病院はドイツ製のCT装置と日本製のサーモトロン装置を融合させて独特の温熱療法を編み出したために、日本全国からの患者がその治療を受けるために集まっています。
バブミッシェルの場合、クルマで1時間半の距離ですから通院も可能なのですが、20日間入院させていただき、9回の温熱治療をやっていただくことになりました。入院にあたっては個室がとれたために、マネージャー兼付き添い看護のビビミッシェルも同室に寝泊まりしています。 瀬戸内では代表的な海水浴場である渋川海岸からの写真です。遠景は右端が古い家並みが人気の下津井港もある児島の街々、中央が瀬戸大橋、左には讃岐富士などの四国の山々が連なる。]]>
[116] バブミッシェルの闘病記(10)
http://yonezawa.exblog.jp/6493303/
2007-02-17T18:33:00+09:00
2007-03-01T12:46:05+09:00
2007-02-17T18:33:04+09:00
yonezawa02
闘病の日々
お酒を飲まなくなって半年以上になります。
毎日、何かの酒類を飲むようになって数十年経っていたのだから、
禁断症状のようなものが心配だったのだが、案ずるよりも生むがやすく、
すんなりとノンアルコール生活に入ってゆくことができています。
最近では甘党の気配さえあらわれてきたのだから、我ながら不思議だ。
パソコンの周りなどにお菓子を並べて置くようになったのだから… さて、[114]の冒頭に「12月上旬から自宅での飲み薬の抗がん剤の
ティーエスワン治療になった」と書いたが、副作用で下痢が続いたために、
2月中旬より、ふたたび、GEM療法([112]参照)になりました。
行ったり、戻ったり、そんな治療が続いています。
下痢が続いたために、健康時よりも体重が12〜14キロ減りましたが、
今、持ち直しつつあります。そのための甘党でもあるのですが…
[06.箱蒸し浴]
初めて見た方は時代劇のサラシ首シーンを連想するでしょう。一人用の木製箱型サウナである。
足元から温泉蒸気が吹き上げてくるが、顔が外側なので我慢できる。終わったら休憩を充分に。
9月7日(木) 青い空 白い雲 緑の山…
悠久の時が育んだ自然がある。 ブナ原生林の白神山地が世界遺産となって注目を浴びていると、ブナを見るためには白神山地に行かないと思ってしまうのだが、どうして、玉川温泉周辺にだって、ブナ原生林はいっぱい。 ブナの林を背にしてお行儀よく並んだクルマは、我々が投宿した新玉川温泉の従業員の方々の通勤用のものである。ここから、いちばん近い人里でも20キロ以上は離れている。皆さん、大変な遠距離通勤であり、ブナ林の中を登ったり降りたり縫うようにして走って来くるのである。
この景色を見た時に不思議な感動を覚えた。秘境ならでは美しさと、そこで働くことの尊さと。 新玉川温泉の玄関前には、樹齢300年のブナがある。さすがに大きい。威風堂々としている。 さて、今回は大浴場の話しが中心になるのだが、玉川温泉、新玉川温泉、湯治館そよ風の三つのホテルとも、泉質はもちろん、広さや浴槽の多彩さ、そして、内部のつくりまで大変よく似ているのである。ここでは我々がいちばんよく入浴した新玉川温泉の大浴場について述べます。 内装はご覧の通り、ウッディ! 隅々までウッディなのだが、素材はブナではなかった。和船造りにも利用される青森檜葉(ひば)という針葉樹。芳ばしい香気を漂わせるのがねらいらしい。 内部はこんな感じである。広々としていて、天井が高い。窓が少なく、昼間でもうす暗い。湯量が多いためか湯気がもうもうとしている。近づかないと人の顔も識別できないほどである。
入浴のたびにカメラを持って行ったのだが、このような写真を撮ることはできなかった。早朝や深夜でも入浴客が途絶えることはなかった。この写真は柱の陰などに相当数の照明ランプを設置して撮影しているが、そんなことは我々にはできるはずがない。男女とも同じつくりである。 レイアウトはこのようになる。多彩な浴槽バリエーションに圧倒される。ひとつひとつに目的があり、湯治客としてはそれを理解して、カラダのことを考えながら入浴するのは難しいことである。ガイドブックには丁寧に解説してあるが、最後のところに「自分自身のカラダに合った入浴法を確立しなければならない」と書いてあるので、ますます複雑でやっかいになる。 ふじみとむ。さんは「玉川療法はかなりの効果を期待できる代わりに、ちょっと間違えれば命取りになることも肝に銘じておかなければならない」とも書いている。源泉100%の大浴槽は中央に陣取っているのだが、いつ行っても利用する人は意外に少ないような気がした。
バブミッシェルの場合、源泉100%に入浴すると首と上胸が最初にヒリヒリしてくるのだが、それを快感と受け取った。酸性度pH1.2について深く知るにしたがって恐怖感は増してきたのだが… 露天風呂と人工岩盤浴は屋根がついているが、庭に面して明るいので写真は撮りやすかった。
小さな庭だが、四季折々の自然が眺められるように工夫されていて、せせらぎの音も楽しめた。 しかも、本当に有り難いことだったのだが、人工的につくられた岩盤浴のコーナーもあった。
この床の下をドドッと低い音をたてて源泉100%が流れているのである。この写真の左寄りに写っているが、その上に、一見、鉄板のような赤茶けた床材が敷きつめてあるのだが、これがほんものの岩盤である。酸性度pH1.2に耐えうる素材としては岩盤しかないのだろう。1.2〜0.3マイクロシーベルトという意外に高い数値のラジウムを発していて、湯治効果も期待できるのだ。 夕食の後などで、ここに本と飲み物、そして、おやつも持ち込んで、毎日、長時間過ごした。床は熱すぎず、冷たくなることもなく、一定の温度を保っていた。本当に至福のときだった。
湯治ではなく、観光的に訪れている人の中には、ほんものの岩盤浴に行かずに、一日の半分以上をここで過ごしている方もいた。カラダ全体の新陳代謝を促進する、癒しのスペースである。
[07.頭浸湯]
浅い浴槽にあお向けに寝て後頭部を浸す玉川温泉独特の入浴法である。約5分間で爽快になる。
効能はストレスなどの精神的症状を和らげてくれること。脳障害のリハビリには効果的である。
9月8日(金) 北投石は1907年に台湾の北投温泉で発見されたために、その名がつきました。
世界中で、台湾と日本の玉川温泉でしか発見されていない非常に珍しい石です。
北投石の大きな特徴は、通常の石の千倍以上の放射線を発していることです。
直径5センチの北投石がつくられるまでには、5百年〜千年もかかります。
さまざまな病気に対して効能を発揮する「秘石」と信じられてきて、
1952年、国の特別天然記念物に指定され、現在、採掘は禁止されています。
「玉川温泉の北投石 驚異的治癒力の記録」高原喜八郎・監修 日正出版・刊 これが玉川温泉から岩盤浴に向かう時の遊歩道なのだが、右側に源泉の大噴からの温泉水が流れている。そして、左側は小高い丘になっているのだが、その頂きに3本の記念塔が立っている。 近づいて見ると「特別天然記念物 玉川温泉の北投石」と書いてあるのだが、そんな特殊な鉱石がゴロゴロところがっているわけではない。この丘を掘ると北投石が埋まっているらしいが、今や採掘禁止になっている。放射線を計測しても特別に高い数値が出る場所でもない。 地図上で「北投石」と表示してあるのは、この記念碑がある場所のことである。 北投石は公的な採掘はされていないし、一般に売られてもいない。まさに「秘石」であって、展示物として見るだけである。でも、なぜか、かなり高額ではあるが、ネット販売はされている。 ひとことで北投石と言っても、色、形など、さまざまである。
その美しさよりも、発する放射線の量で価値が決まるようだ。 我々はこのような物を買って、家でお風呂に入れたりして玉川温泉気分を味わっているのだ。
茶色い球は「ラドン発生セラミックボール」と言って、人工的につくられた石である。白い石は玉川温泉近辺の採掘が可能な山で集められた、多少はラドンを発っする通常の自然石である。
玉川温泉に関する本のご紹介(3)
「八幡平の自然」八幡平国立公園協会(盛岡市役所商工観光課内) ・監修
瀬川経郎・中村茂 = 文 安野木正・中村茂 = 写真
熊谷印刷出版部(盛岡市)・発行 A5変型版 156頁
昭和57年11月・初版発行 1,835円(税込・送料別途) 玉川温泉について記載してあるのは上載の見開き2頁だけであるから、いわゆる「玉川本」の範ちゅうには入らないのだが、例えば現地でレンタカーを借りて周囲を散策したい方は携えて行ってほしい本である。四季を通じての八幡平の魅力を写真と文で丁寧に紹介してある。特に、季節ごとの花に関する記述は学問的な詳記であるし、どのような場所に行けば見られるかまで書いてあるので便利だ。それと、印刷に多少関わってきたバブミッシェルとしては、総グラビア156頁の本が2000円以下で売られていること事態が不思議であり、出版社の良心を感じた。
この盛岡市にある(株)熊谷印刷のHPの図書目録は見るだけで楽しい。郷土の歴史、文化財、民俗、風土、生活、社会から、このような自然に関する出版物まで網羅してある。石川啄木や宮沢賢治を地元の研究者ならではの作品解釈したものもあり、一読したいと思っているのだが…
【LOG in BLOG】07.2.27
3月2日より8日間、念願の「雪の玉川温泉」に行くことになりました。
例年よりも雪が少ないとのことではありますが、どんなものか。こちらとしては登山靴、小型アイゼン、短めのスパッツ、ゴアテックスのウェアという、関西での冬山装備で向かいます。
ガイガーカウンターは「はかるくん」の新製品を借りることができました。芋類やたまごを噴気孔で蒸し焼きにする用具も準備できました。カメラはフィルムでも撮らえてみたいと思っています。東京在住の娘ふたりが、途中、援護隊ということで参加することになっています。
雪の中での湯治方法についてはわからないことが多いのですが、精いっぱい、ラジウムを浴びてきます。帰ってきましたら、このブログに写真での速報を入れる予定にしています。]]>
[115] バブミッシェルの闘病記(9)
http://yonezawa.exblog.jp/6425121/
2007-01-31T23:45:00+09:00
2007-02-18T00:19:17+09:00
2007-02-02T23:23:59+09:00
yonezawa02
闘病の日々
「ねぇ、どうしてるの? 1カ月もブログをほったらかしにして。体調でも悪いの?」
あちこちから、そんな声が聞こえてきました。ごめんなさい。
ペコちゃんの会社の社長さんのように深々と頭をさげて、
下を向いたまま「さて、困ったな」と言い訳の方法を案じているところです。
体調は悪くありません。抗がん剤の副作用はありますが、さほどでもありません。
気のゆるみもあったのですが、ちょっと、何やかやと忙しかったのも事実です。
新しい治療法に挑戦していることが、ひとつの原因と言えば原因です。 摂氏41.5〜44度……これは何の温度かおわかりでしょうか。
「私の好きなお風呂の温度」というお応えが返ってきそうですが、ここでは違います。
がん組織が死滅する温度なのです。
正常組織に比べてがん組織は熱に弱いという「むほん者の意外な弱点」があるのです。
でも、玉川温泉の岩盤浴のように外部からの加温で
がん患部を41.5度以上に高めることは不可能なのです。ところが、
高周波を発する電極を身体にあてることによって患部を加温するのは可能なのです。
それを温熱療法と言って、手術、抗がん剤、放射線の三大療法に次ぐ治療として、
すでに健康保険でも認められています。
実は、バブミッシェルの場合、この2カ月ほどは、この温熱療法での治療日が多く、
そのためもあって、忙しくなった…とだけ言っておきます。
いずれ、その体験を記しますが、ここでは玉川温泉について書きつなぎます。 [05.打たせ湯]
玉川温泉ではお湯の量が多いために落下の力が強い。足、腰、肩、背骨、首筋を5分間程度で。
体の前面、特に胸やお腹には打たせてはいけません。皮膚炎症状なったり、倒れる人がいます。
9月6日(水) 玉川温泉の岩盤浴やラジウムについて書いてきましたが、まだ、温泉そのものについて述べていません。大噴から玉川温泉にかけて川沿いの道を400メートルほど歩きながら、ここでの温泉水のことを語らせていただきます。地核の脅威…そんな言葉が浮かんでくる場所なのですが… 舗装された歩道の向こうの川床から、すさまじい噴煙が立ちのぼっているではないか。 玉川温泉の源泉は「大噴(おおぶき)」という名がある。平安時代初期から約1200年間、ひとときの休みもなく硫黄の匂いを漂わせながら、低音でうなりながら、噴出を続けているのである。 湧出量はこの一カ所だけで毎分9000リットルである。日本一の量であり、「一カ所から」ということで限定すれば、世界一でもある。一般家庭で使われているお風呂の湯量に換算すると、毎分約50杯分が湧き出ている。通常の温泉の源泉の湧出量は、多いところでも毎分数百リットルだから、玉川温泉の量がいかに突出したものであるかがおわかりいただけることでしょう。 毎分9000リットル以外に、玉川温泉を語る場合に覚えておいてほしい数字が、あと二つある。
噴湯の温度が摂氏98度。気圧の高低で多少の変化があるらしいが、東半球最高の数値である。 水素イオン濃度はpH(ペーハー)1.2であり、日本一強い酸性温泉水である。蔵王温泉や草津温泉など、強酸性温泉を謳っている所は多いのだが、その大部分は硫酸性の温泉である。
しかし、玉川温泉は塩酸性であることが他の温泉と違っている。上の写真の環境庁の告知にも書いてあるように「塩酸を主成分としているのも大きな特徴」なので、幅広い効能が期待できる。適応症と禁忌症については玉川温泉オリジナルサイトの「泉質と効能」でご確認ください。 さて、この湧湯なのだが、川下にある玉川温泉、新玉川温泉、湯治館そよ風の三つの大きなホテルで分かちあうため、直接にパイプで運ばれるのかと思ったら、そうではないのである。 危険でもある高温を下げるためか、しばらくは湯気を立ちのぼらせながら川を流れるのである。 その川沿いの道には「ラドンガスの風」を受けるための湯治客が座り込むのである。 呼吸器系の病気に効果のあるラドン温泉としては、鳥取県の三朝温泉と玉川温泉があるのだが、温泉水の中に含まれているラドンの量は三朝が32.2マッヘに対して、玉川は0.76マッヘと桁違いに低いのである。それは低温の温泉水なら混じって噴きだしてくるはずのラドンが、玉川では98度という高温のために温泉水に留まらずに、直接空気中に放出するのである。
ということで、鼻や口からラドンガスを呼吸器に吸い込むには、この川沿いの道が一番らしい。 この川には「湯川」という名がついている。源泉の「大噴」もそうなのだが、「名は体をあらわす」方式の固有名詞的でなさすぎる名称と思いませんか。川床の硫黄を見ていると、うぐいすの羽根の色を思い出して「ホーホケキョ川」と名付けたくなったのだが、いかがなものかな。 この湯川、川下に移り、玉川温泉の自炊部の建物が見えてくると、ちょっと様子が変わってくる。 売店などで売られており、おみやげ品として人気がある入浴剤「湯の花」の採取場である。 「湯の花」の成分はほとんどが硫黄で、色は柔らかなクリーム色をしている。 他の温泉のものと少し違うのは、放射線が出ていることである。計測すると1.0マイクロシーベル前後なのだが、5マイクロシーベルトはあるという研究者もいる。ラジウム効果を期待する購入者はガイガーカウンターを持って売店に行き、数値の高いものを選んで買うと良い。 皮膚病やしもやけに効果がある軟膏「練り湯の花」も同じ成分である。 ここまでたどり着いて硫黄分を多少抜いた、低温化した温泉水を各ホテルに分配するのである。 ペーハー1.2の強酸性は鉄などを簡単に溶かしてしまうので、配管設備の修復が大変である。 さて、ここから国家プロジェクトがある。三つの大きなホテルに分配した後も、温泉水は大量にありあまるのだが、それをそのまま川に流すと川下の人々が甚大な被害を受けるのである。
毒水と呼ばれる温泉水が玉川に流入することになれば、
玉川の水を利用している田沢湖町以下の発電施設の被害はもちろん、
生保内〜角館にかけての水田地帯は不毛化するので、
秋田県は国の援助を得て処理を行っている。
「八幡平の自然」八幡平国立公園協会・監修 熊谷印刷出版部(盛岡市)・刊 鬱蒼と生い茂ったブナ林の中に身を隠すように「玉川毒水中和処理場」があった。ここで、どのようにして玉川毒水を中和するのかについては「蘇れ! 命の水」というHPをご参考に。酸性水対策の取り組みを始めたのは160年前だが、現在の処理場が完成したのは16年前のことである。 毒水…これも「名は体をあらわす」方式の名称であるが、恐さが直感できる。一般名詞なのか固有名詞なのか意見がわかれると思う。「大辞林」「大辞泉」に「どく-すい【毒水】毒を含んだ水」という表記があるし、草津温泉方面では酸性水のことを毒水と呼ぶ慣わしがあるらしい。
でも、上記の「八幡平の自然」にも「毒水と呼ばれる温泉水」という記述があるように、この地方で生まれた固有名詞であると信じたい。およそ1200年にわたって作物を枯らしてしまう酸性水で困窮してきた農民たちの悲しい歴史を物語る、怨念のネーミングではないだろうか。
玉川温泉に関する本のご紹介(2)
「生きる者の記録」佐藤健と取材班・著 毎日新聞社・刊 湯治場の朝は、暗闇の中で明ける。
午前3時前、「ペタッ、ペタッ」という音で目が覚めた。
耳を澄ますと、次第にその数を増やしていくではないか。
思わず部屋の引き戸を開ける。と、廊下を浴衣姿の湯治客が歩いている。
つえをつく人。手すりにつかまり、数歩進んでは肩で息をつなぐ人。
肉親に車椅子を押してもらう人もいる。
初めての客はまずこの光景に圧倒される。
なにしろ大半が重い病を抱える人々だ。
普段は家族や看護師らのお世話になっている人たちだが、
ここでは自分の意志と力で一番湯を目指している。
この1〜2年、ヒットしたブログを単行本にするケースが目立っているのだが、この本はそれを連想させるところが多い。2002年12月、毎日新聞に「紙上ブログ」的な記事が登場し、我々も読者となった。その文章や写真は連載中に毎日主筆賞も受賞し、やがて単行本となる。
身辺の雑多な話題を取り込んだ闘病日記であり、読者の声も収録したコメント集でもある。
新聞記者であるがん患者が自らの体験をドキュメントする方法も特異であったが、冒頭の玉川温泉の記録を読んだだけで圧倒された。バブミッシェルとしてはがんの告知を受けた段階から、この本のことが脳裏から離れなかった。今後とも玉川本のてほんとなることであろう。
私は「生きる者の記録」を読んで、
玉川温泉には末期がん患者の信仰にも似た風景があるように感じ、
玉川温泉に集まる人々の暮らし・思いは現代の民俗誌の1コマと考えた。
「聞書き 玉川温泉生活誌」 森栗茂一・著 岩田書店・刊]]>
[114] バブミッシェルの闘病記(8)
http://yonezawa.exblog.jp/6259944/
2006-12-29T11:36:00+09:00
2007-02-05T18:41:30+09:00
2006-12-29T11:36:56+09:00
yonezawa02
闘病の日々
もしも体調がいま少し回復していたならば、
僕はいまごろ腰まで積もった雪の中をラッセルしていたはずだ。
全国各地からがんを患う人々が集まるという湯煙を目指しながら……。
病室から見える冬空に、はるかみちのくの空の色を重ねている。
「生きる者の記録」 佐藤健・著 毎日新聞社・刊
年の瀬、バブミッシェルは9月上旬に自ら撮った写真を見ながら、玉川温泉について語ろうとしている。でも、心の中では、雪に覆われた峡谷のことが気になっている。最近、テレビの温泉めぐり番組では見ているが、体験したことのない世界をセンチメンタルに想い続けているのだ。
体調的には冬の玉川温泉に行くことは可能である。ましてや、佐藤健さんのように入院中ではない。12月上旬から自宅での飲み薬の抗がん剤(ティーエスワン)治療になったので通院回数も減った。なのに行かないのは、放射線の強い地面が雪に覆われていることと経済問題である。
1カ月半ほど入稿を休んでいたのは少しだけ忙しかったのです。年末年始は頑張ります。
[03.大浴槽(源泉50%)]
体を慣らすために源泉50%の湯舟に腰湯で温めてから、そろそろと静かにつかることが肝心だ。
湯舟の中では手足を動かし体を慣らす。額に汗が吹き出てくるまで約5〜6分入浴し、10分休憩。 9月4日(月)
今、「岩盤浴」をネット検索したら、膨大なビジネスチャンスを生み出している業界であることがよくわかる。都市生活者も簡単に岩盤浴が楽しめることは良いことだと思うが、そこでは「岩盤浴の原点」である玉川温泉とは異次元の世界に拡がり、発展を遂げているのだ。 例えば「発汗作用」である。都市生活者のための岩盤浴施設では発汗作用を期待する面が大きいと思うが、玉川温泉で発汗作用を期待できるだけの地熱のある場所は限定されている。
この三つの緑色のテントの中とその周辺だけである。岩盤浴エリアのほんの一部分である。 結局、バブミッシェルがこのテントの中に入ったのは2回だけだった。ひとつのテントの中に20人たらずが横になれる。位置によって温度差があり、さほど熱くない場所もあるにはあった。 でも、「ごめんなさい」と言いながら人を踏みつけないように分け入って寝ころんだ地面の温かさ、いや、熱さは想像以上のものであった。畳表のゴザを敷き、その上にタオルケットを広げ、トレーナーを着込んで寝ころぶのだが、5分もすると背中が辛抱しきれないほど熱くなった。 横に向いたり、腹ばいになったりするのだが、人体には前後左右の4面しかない。そのローテーションの間隔が次第に短くなり、ずっとゴソゴソと寝返りを繰り返していることになる。
我々、初心者は30分ぐらい。慣れた方でも1時間が体力的にも限界ではないだろうかと思う。 並んで寝ころんでいる先輩湯治客が低温やけどの経験談を語ってくれた。少しの低温やけどでも湯舟に浸かれなくなり、なかなか寝つけなくなるらしい。「我慢するな」が合い言葉らしい。 目をつむって横たわっている人もいるが、ひる寝している人はいない。まるで「がまん会」をしているようにも見えるが、たっぷりと汗をかいて、気持ち良さがジュワッと伝わってくる。 このエントツは有害な亜硫酸ガスなどをテント内に充満させないためだが、もうひとつには熱気を外に逃がすためだろう。ひとつのテントに5〜6本のエントツで高温ガスを抜いているのだ。 さて、テントから近いところに露天風呂がある。東北地方の観光ガイドブックには必ず載る有名な露天風呂なのだが、この湯舟にも名前がついていない。それと、ぬるめの温泉のためか、無料なのに誰も入っているところを見たことがない。もっぱら足湯として利用されている。
[04.飲泉場]
コップに飲泉を注ぎ、冷水で5倍に薄めて飲む。塩酸性で薄めても酸っぱい。1日5合が目標。
だ液と混ぜながらゆっくりと飲む。飲み終わったら歯の用心のために冷水でうがいをすること。
9月5日(火)
「放射線ホルミシス」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
ホルミシスはギリシャ語の“horme”で「刺激する」という意味です。
たくさんの量だと害をおよぼす放射線が、ごく微量ならば、
細胞を刺激して、免疫力を向上させて、プラスに働くのです。
いろいろな動物実験などで立証されて、
ほんの少しの放射線が持つ効能には科学的根拠があることがはっきりしました。
「玉川温泉の北投石 驚異的治癒力の記録」高原喜八郎・監修 日正出版 前項(9月4日)でテントの中には2回しか入らなかったと言った。うち1回は短時間であったが雨が降り、雨宿りしたのである。テント内は満員電車のようになったのだが、何とか横になり地熱を感じ、汗も出ました。なのに、なぜテント周辺に積極的に行かなかったのかについて…
キーワードはガイガーカウンター(放射線測定器)である。 玉川温泉の湯治客は、温熱湯治派とラジウム湯治派に分かれるのである。
テント内やその周辺の地熱の熱い所に行って、しっかりと体の内部まで温めて汗をかき、全身の細胞を活性化さす湯治方法もあるのだが、バブミッシェルの場合、もうひとつのラジウム(放射線)による湯治を選択したのである。そして、不思議なことなのだが、例えばテント内など、温熱湯治ができる場所ではラジウムの測定値がグッと低くなるのである。
そして、地熱がまったくない…例えば、薬師神社前に行くと高い測定値が得られるのである。 この写真を見るとニヤッと笑ってしまう。この場所には寝たことがあるのだが、岩と岩に囲まれて、通常、ひとりしか横になれない。そこにふたりである。どうやらカップルらしい。
地熱はほとんどゼロ。そこそこ着込んで寝ないと寒々としてくる。このふたりは抱き合って暖かいかもしれないが… にもかかわらず、順番待ちの行列ができる人気スポットであるのだ。
ここでのガイガーカウンターの測定値0.23マイクロシーベルト。ラジウムの量が多い場所だ。 我々は8日間滞在したが、初日に知りあった盛岡市から来られた方に教えられて、毎日、この白い地面の窪地に来るようになった。ここを「すり鉢」と呼んでいた人もいたが、正式地名でないような気がする。左手の奥の湯気が出ている所は源泉の大噴(おおぶき)があり、高温の湧湯を流す湯川が右寄りに伸びている。風向きにもよるが、湯の花の匂いがプンプンとする場所である。
裸の人が何人かいて仲良くアイスクリームを食べているのだが、ここも地熱はほとんどない。ラジウムをより効果的に浴びるには裸が良いということであって、結構、本人たちは寒い思いをしているのである。右手前の黒いゴザが置いてある場所から熱いガスが噴出している。 そのガス噴出口に近づいて横になると少し暖かいのだが、ラジウムの測定値は高くない。 ラジウムの測定値が高くなるのは、この窪地の隅っこ。小岩が突出している横の場所である。 この場所は俳優の平幹二朗さんが長期間にわたって湯治したことで有名になった。
こんなに寒くて寂しい場所に辛抱強く横になっていた平幹二朗さんのことを思うと、バブミッシェルは「彼に負けずに頑張らなくてはいけない」という気持ちになってくる。 この辺りのガイガーカウンターでの測定値は日毎に違うのだが、0.2〜0.4マイクロシーベルト。
お断りしておきますが、湯治初心者の我々はカウンターまで準備していなかったので、ここでのお仲間に計ってもらった結果である。カウンターは無料貸し出ししてくださる団体があります。 湯治する場所が固定すると、当然のことながら、そこに集まってくる常連さんとお話しをするようになり、いいお友だちになるのだが、そんな人たちの中から一部の方をご紹介します。
バブミッシェルの隣りに寝ている草色の服を着た女性はあまり口が利けないほど進行していた。
でも、本人が「玉川に行きたい」と言うので、ご主人とその弟さんに支えられるようにして湯治に来ている。横浜からホテルまではご主人のクルマで走り、ホテルからこの窪地の入口までは車椅子を使っていた。当人の希望をかなえるためのふたりの男性の努力に敬服した。 左の上半身裸の男性は玉川には数年前から何度も湯治に来ていて、一旦は完治させた経験の持ち主である。再発して、玉川温泉の自炊部に奥様といっしょに長期滞在しているのだが、ご夫妻にはいろいろと教えてもらった。新潟県の方なのだが、今も電話で連絡を取り合って、がんに効くといわれる米国製サプリメントを仕入れて送ってもらったりしている。春になったら、再度、玉川で落ちあって、いっしょに湯治をしようということになっている。今からとても楽しみだ。 さて、ラジウムの測定値がもっとも高いのはこの玉川薬師神社の鳥居の前なのだが、ご覧の通り、あまり人が集まっていない。いかにも寂しい雰囲気ではあるし、地面も冷たい。
でも、理由はそればかりではない。ここで長時間にわたってラジウムを浴びると体の負担が大きく、マイナス効果になることもあるらしい。だから、10〜20分と短時間の人が多かった。横になるとラジウムを浴びすぎるので、しばらくの間、しゃがむだけで帰ってゆく人もいた。
【LOG in BLOG】07.1.1 旧年11月、熱海市の伊豆山のホテルに泊まっていましたら、
部屋の隅々まで急に明るくなり、赤く染まりました。
朝寝坊な我々ですが、ノコノコと起きて窓を開けますと、
ご覧のような日の出を見ることができました。
キリマンジャロの項でご来光を見ても感激しないと書きましたが、
何か、わずかばかりですが、感慨にひたるところがありました。
国の内外から暗いニュースばかりが届く今日この頃ですが、
新年は明るいニュースに出会ったら窓を大きく開けて呼び込もう。
「やあ、いらっしゃい」と声を出して歓迎しよう。
それにしても、この半年、このブログは暗い話題で終始しています。
皆々様、よくぞ、こんなブログにお付き合いくださいました。
新年こそは明るく展開する方向に持って行こう。
そう努力しよう。新たな気持ちで闘ってゆこう。
そんなところが年頭の所感です。
本年もよろしく。]]>
[113] バブミッシェルの闘病記(7)
http://yonezawa.exblog.jp/6002243/
2006-11-07T22:33:00+09:00
2007-02-06T12:56:23+09:00
2006-11-07T22:55:56+09:00
yonezawa02
闘病の日々
お待たせしました。やっと玉川温泉の項にかかることになりました。
前項の「外来でのGEM療法とその一週間」とは時系列で逆になりますが、
この玉川温泉の項が完成した後で入れ替える方法を講じたいと思います。
何はともあれ、温泉に入った気分になって、ごゆるりとどうぞ。
なお、玉川温泉における「入浴の心得」とか「効果的な順序」というのがあり、
その心得とか順序を各テーマのサブタイトル代わりに緑文字で表記します。
[01.脱衣室]
体調に異変を感じた方などは脱衣室前の入浴相談室で気軽に看護師にお話ししてください。
かごに入れた浴衣はよく間違われます。目立つパンツを浴衣の上に置くと良いでしょう。 14年前、「リフレッシュ休暇」という時事用語が生まれ、所定の勤続年数に達したら会社から長期休暇が許される規定が設けられた。バブミッシェルは52歳だったのだが、勤めていた会社の第一号認定者となった。で、後輩たちの規範になるような海外旅行をしてやろうと目論見て計画を練ったのだが、当時、週一回のテレビ生CMを一人で担当していたので仕事の切れ目がなく伸び伸びになった。4月中旬になってゴールデンウィークで番組が一週抜きと決まってチャンス到来となったのだが、当時、短期間で対応してくれる旅行社はなく、計画をほごにせざるを得なかった。結局、専業主婦であったビビミッシェルと共に4月下旬の10日間、東北一周の旅に出た。
前半の5日間は白河関側から北上しながらの景勝地めぐりとなった。そして、後半の5日間は青森県下北半島の薬研温泉から福島県猪苗代町の沼尻温泉までクルマで移動しながらの「温泉のハシゴ」となった。一日3回ほど入浴し、トータルで10数カ所の温泉をめぐったのだが、いずれも特徴のある名湯ばかりであった。その中でもっとも印象的だったのは上載の地図にも示している後生掛(ごしょがけ)温泉であった。今回も後生掛には再訪しているので後ほど詳記します。 14年前の話しが続きます。後生掛温泉で濡れたタオルを持って我々はクルマに乗り、その日の宿泊予定地の田沢湖高原に向かったのは午後4時すぎであった。4月下旬なのに積雪が3メートルもあって、車窓からは遠景がほとんど見えなかったのだが、しばらく走っていると、雪原の彼方に白い湯けむりが立ちのぼっている所があった。それが玉川温泉であることはわかったのだが、立ち寄る時間がなかった。宿の外観を見ることもなく、やむなく通過した。
以来、まるで山火事のように天に昇る湯けむりのことが脳裏に焼きついたのだが、それは源泉などが発する湯気であると思い込んでいた。上の写真をご覧いただくとわかるでしょうか。ここでの山肌の尋常でない地熱が周囲の冷気と相まって発する霧だったのです。だから今回の9月の場合は朝夕の冷風が吹いた時だけに起きる現象であった。ポカポカと暖かい昼間は青天井のもとで岩盤浴などを楽しめたのだ。14年前は残雪期だったので霧も発生しやすかったのでしょう。
そんな「湯けむりの世界に飛び込む」といった浅はかな思い込みもあったが、近年、がん湯治場として高評価を得ている玉川温泉に我が身をゆだねてみたいと考え、陸奥二人旅に再出発した。
[02.かけ湯]
温泉のかけ湯は入る時のためです。出る時のためではないので、あがり湯とは言いません。
肩から下にお湯をかける人が多いのですが、マナーとしては頭から何度も浴びてください。
9月3日(日) 関西から玉川温泉に向かうアクセスとしては新幹線などがあるが、入院前の忙しい時期でもあったので、今回は最初から空路と決めていた。上載の地図にも示してあるように、周囲には3つの空港があり、いずれも伊丹空港からの直通便がある。もっとも近い大館能代空港には毎日1便、2番目に近い秋田空港には2便、いわて花巻空港にはなんと3便も飛んでいるのだ。
しかも、3空港ともに玉川温泉まで直行してくれる「乗合タクシー」という大きめのワゴン車が走っているので便利は良い。今回は朝早く出発して、その日の内に岩盤浴をしたい。帰還の日も温泉に浸かってから空港に向かいたいということで、行き帰りともに秋田空港便となった。
空港のロビーで出会ったのは、泣く子も黙らせる男鹿半島のなまはげの恐怖のお面であった。怠け者を戒めることで有名ななまはげに「玉川温泉ではシッカリ湯治するんだぞ」と諭された。 伊丹から秋田までの空路は1時間少々、秋田空港から玉川温泉までの乗合タクシーは2時間足らずなので、朝7時に家を出て、昼1時すぎにはご覧の通り、岩盤浴スタイルでお出かけとなった。 さて、ひとことで玉川温泉と言っても、宿泊所は3カ所もある。
ブナの森に抱かれた秘境に、数百人収容の大きな湯治宿が3棟も並んでいるのだ。
江戸時代初期に発見された玉川温泉は、一旦、火薬の原料である硫黄の精錬所として開発されたが、江戸末期には湯治場としてスタートを切っている。その後、約200年にわたって増築と改築を繰り返して収容数を増やしてきているが、7年半前、湯治客を収容しきれなくなって、新玉川温泉がオープンした。第3棟の湯治館そよ風が誕生したのは2年前のことである。
今回、我々が宿泊したのは新玉川温泉である。玉川温泉が「陸奥の湯治場」という雰囲気を醸し出しているのに対して、新玉川温泉は同じ経営母体が運営するホテル形式のものである。湯治初心者としてはホテル的な設備でゆっくりしたいという気分でチョイスしたのだが、結果として無難な選択だったような気がする。なお、もう一棟の湯治館そよ風は、新玉川温泉の宿泊や食事の面を一段とデラックスにしたもので、新しい顧客層を開発していると思われる。 この日から8日間、玉川温泉に滞在したのだが、その間、通称「玉川博士」と呼ばれる何人かのベテラン湯治客に出会い、お話しをうかがった。帰宅してから玉川温泉に関する書物も読んだ。で、ひとつ思ったことは、地名がはっきり決められていないのではないかと言うこと。
上記の地図で岩盤浴を楽しめる場所のことを「地獄谷」と書いているが、異論もあるでしょう。他に「すり鉢」という地名もあったが、東側に限って言えば形状的にはそうではある。WebのMapには「北投石」と書いてあったりするのだが、現地でそんな呼び方をする人はいなかった。 多量に吸入すれば呼吸困難や心臓麻痺を起こす有毒な亜硫酸ガスを発する噴気孔があちらにもこちらにも数え切れないほどに見られる。ここではこの地を「地獄谷」と呼ぶことにします。 地熱は火傷しそうなほど熱い所からホンワカと暖かい所までいろいろとあり、各自がお好みの場所を選んで岩盤浴が楽しめる。「いい場所は朝早く行かないとダメ」と早朝からの人も多い。 病気の人、病気を予防するための人、
ただポカポカとした暖かさを楽しんでいる人…
さまざまな人々が思い思いのスタイルで集まっている。
標高700メートルなので、日中でも気温は高くならない。
この気持ち良さは、ここだけのものじゃないだろうか。 と言うことで、有毒ガスがあちこちから噴出している所で湯治客はくつろいでいるのである。
危険と言えば、こんなに危険な所はない。だから、このような表示板が随所にある。 有毒ガスだけでなく、これもあちこちで、小さな高温の温泉も湧き出ているのだ。
このミニ温泉。見ていると高温過ぎて、その場で蒸発するので、お湯が流れ出ることがない。 蒸気を腹一杯深呼吸すれば、呼吸器疾患なんか吹っ飛んでしまう。
毒をもって毒を制する。
大自然とは脅威と優しさを持った不思議にしてありがたいものである。
「玉川温泉で難病を克服する方法」安陪常正・著 民事法研究会・刊 これは何かおわかりでしょうか。蒸気の噴出口に、湯治客が芋類、卵、にんじん、玉ねぎ、かぼちゃ、にんにくなどを新聞紙に包み、紐の付いた布袋に入れて投げ込み、蒸しているのだ。
おやつとして、その場で食べるのだが、おいしかった。我々、初心者はこんなことができるとは知らなかったので準備していなかったが、あちこちでいろんな方からご相伴にあずかった。
玉川温泉に関する本のご紹介(1) いわゆる「玉川本」と言われるものには学術的なものが多いのだが、これは湯治客自身が書いた体験ものである。地元、秋田市の出版社の素晴らしい協力もあって恰好の一冊になっている。
1969年生まれのふじみとむ(不死身富夢)さんは30歳にして上咽頭がんの告知を受ける。大学病院などでの治療期間もあったのだが、2年半後には玉川温泉湯治を中心にした治療に移り、自らの湯治スタイルを確立する。若くて元気いっぱいの闘病記だから読んでいて気持ちがいい。
宮城県の方なのでクルマで行って、孤独で長い自炊生活になるのだが、食糧を買い込むために玉川温泉の北方の鹿角市の市場に出かける場面がある。その生活感あふれた一節を転記します。
「まけてくれるかどうかは交渉次第であるが、玉川湯治者は玉川特有の
温泉臭がするために、湯治客と気付かれ、あまりまけてくれない。
なぜか厳しいのだ。でも、1000円でリンゴ20個以上買ったこともある。」
彼は2001年よりHP「ピノコの部屋」を開いて闘病記や湯治記などを紹介している。
単行本はモノクロ写真が少し載っているだけだが、HPはカラー写真をふんだんに見ることができる。HPを見ながら、単行本を読んでいると、あなたも玉川博士になれますョ、多分ね!?]]>
[112] バブミッシェルの闘病記(6)
http://yonezawa.exblog.jp/5867745/
2006-10-14T23:24:00+09:00
2006-11-08T11:02:05+09:00
2006-10-14T23:24:44+09:00
yonezawa02
闘病の日々
玉川温泉のリポートをパスして、次に進みます。
玉川温泉の入稿が遅れているのは、出発前にデジカメの1ギガのメディアが
安くなっていて購入したのだが、それで気が緩んで現地に行ってから
バチバチと写真を撮りすぎて、整理に困っているという「くだらない理由」からである。
「関西では玉川温泉に行った方の話しは聞けないのでシッカリ書いてくださいね」という
声を耳にしていますが、タイムリーなものを先行させます。あしからず。
10月13日(金)
9月30日に退院して2週間になるのだが、その間、カリスマ外科医が「神の手」でがん患者の治療をするテレビのドキュメンタリー番組を3回も観た。「神の手」というのは今や医学用語みたいなもののようだが、何とおこがましい言葉だろう。手術が終わった後、サヨナラホームランを打った野球選手のごとく晴れがましくインタビューに応じている外科医の姿を見ていると、ちょっと意地悪に「あなたには手術の失敗例はないのですか」と訊いてみたくなる。
死因の第一位を占めるがんをテレビ番組で取りあげるのは賛成であるが、なぜいつも決められたように外科医なのだろうか。「視聴率を上げるためには」という番組制作者側の事情があり、偏った見解を感じる。がんの治療法にはいくつかの選択肢があり、そのひとつが外科である。早期発見のために地道な努力をしている医師が全国津々浦々にいる。そのようなものでは番組にすることができない、映像にならないと言うことなのだろうが、再考を望みたい。 ということで、地道な治療の一例として、外来として初めて行った抗がん剤治療と、その後、副作用がどのように出るのかを、一週間にわたりドキュメントしてみようと考えた次第である。
まず、抗がん剤治療を受けるためには消化器内科医師の「治療OK」をもらう簡単な問診があるのだが、その5分ほどで終わる問診のために、この日、3時間30分待たされたのである。このC病院は入院患者には気心の知れた看護婦さんが味方になってくれて暖かいのだが、外来患者には冷たいのである。でも、2カ月以上にわたって入院していた病院のことであり、この待ち時間は想定内のことではあったのだ。途中で昼食をとりに行ったり、本を読んだりしていた。
待合室には入院中に知りあった患者もいて、彼らとの間で「医師たちは朝から休みなく診察が続いているのだが、昼食はとったのだろうか」という話題になった。ある患者は「短い時間でお弁当を食べるらしいよ」と言った。また、ある患者は「3時とか4時まで昼ご飯が食べられないと嘆いていた」と言った。いずれにしろ日本の医師不足が浮き彫りにされている。「医師を増やすと医療費が増える」という、国民をバカにした政府の医療費亡国論がここでも生きているのだ。
問診の相手はいつものG医師が休暇のために代理の若い医師だが、お互いに顔見知りではある。「お元気そうですね」「極めて調子いいですよ。退院してから食事の量も増えたし、体重も少々アップ」「じゃ、あちらでジェムザールの治療を始めてください」ということになる。
外来化学療法室に入る。病室と違って幅が狭いベッドが30床ほど並んでいる。ベッドの横の点滴用のポールの先に、ペットボトルを逆さにしたような3種類の容器が並べられた。上記の写真の通りである。ところが、ここでも待たされる。うたた寝をしていたら、若い女医さんが来て起こされ、左腕の手首から5センチほど上の所に注射針が打ち込まれた。1番目と2番目の液はそれぞれ30分かけてゆっくりと点滴する。3番目はドドッという感じのスピードとなり、5分で終わる。点滴している時間は1時間少々だが、待ち時間などを入れると2時間を要した。
クルマで帰宅したのは夕刻だった。治療当日は副作用的なものは何もなかった。
10月14日(土) 朝、ヘリコプターの音で目が覚めた。10月7日のところで書いたのじぎく兵庫国体に引き続き、今日は全国障害者スポーツ大会の開会式の日である。会場に行こうと思ったら、ゲートも見えない場所なのに「IDカードがないと入れません」とストップがかかった。会場の周りは人で埋まっていた。この写真は会場から数百メートル離れた総合運動公園駅の前で入場を待っている選手団である。選手団の行進が始まると拍手がわいた。開会式への入場はおろか、会場に近づくこともできなかったバブミッシェルは「盛り上がっているなぁ」と思った。頭上ではヘリコプターが飛び続けていた。遠い昔の記憶になるが、秋の空を赤トンボが舞っているようだった。
この日も副作用的なものは感じなかったが、明日からの4日間の旅行のことを考えて自重した。
10月15日(日) 鏡のように静かな湖面、温かい露天風呂。左側に立っているヘンな男は「逆光なのだが裸体を見せたい!」という一途な願いをかなえるためにフラッシュを光らせているではないか。
神戸から300キロメートル。クルマで奥浜名湖の三ヶ日温泉まで走ってきたところである。
ここで名物のウナギを食べて、三ヶ日みかんをかじっていると、元気が出るのではという思いを込めて、担当医にも内緒でやってきた。湖面と風呂の湯面の高さを極限まで近づけている設計にご注目いただきたい。旅の疲れを忘れ、抗がん剤の副作用もなく、素敵な夜を迎えた。
10月16日(月) 昨日、浜名湖に到着したことをお伝えしたところだが、本来の目的はこれである。
今年も「アフリカの風」の季節が到来したのだ。一行4人は一ヶ月にわたる全国ツアーのほぼ最後の公演の場として、ここ、浜松市に来たのである。会場は遠州栄光教会の大きな礼拝堂。左の方は村瀬正巳さん、この「となりのアフリカ」という催しを企画し、運営した方である。 今年のツアーには神戸や大阪が予定されていないために、我々は浜松まで追っかけをするハメになったのだが、お馴染みの催しを見知らぬ土地で観るのも、なかなか良いものである。 キベラの学校やミリティーニ村の現況を伝える早川千晶さん。この3日後にはケニアに帰国し、26日にはカテンベくんの手術が控えている。金銭的にもスケジュール的にも彼女ほど張りつめた日々を過ごしている人はいないと思うが、相変わらず元気いっぱいでニコニコ。不思議な人だ。 太鼓たたきの大西匡哉くんが素敵な先輩を連れてきたのだ。彼の師匠であり、ドゥルマ民族の音楽家として世界的に著名なスワレ・マテラ・マサイさんが初来日したのである。 二人の音楽は楽しいものだった。マイクが要らないぐらい賑やかで、リズミカルな歌と打楽器と踊りの世界だった。匡哉くんが大御所の前で臆することなく演奏していたのが印象的であった。 こちらだけがアフリカからではなく、沖縄からの演奏家である。と言っても、アフリカの音楽を初めて聴いたのは、この人からだった…という方も多いことでしょう。近藤ヒロミさんである。 6年間かけてアフリカ20カ国を歴訪して音楽修行をしたヒロミさんは、今、“親指ピアノ”と呼ばれるムビラやカリンバ、そして、不思議な笛を駆使してヒロミワールドを展開している。 ここは早川千晶さんの出身地でもあるのだ。中央の二人は千晶さんのご両親、初対面である。
しかも、お母さんは7年前に乳ガンを患い、ご苦労なさった体験があるので、この「バブミッシェルの闘病記」の熱心な読者でもあるのだ。お会いした時にこんなことを言われてビックリした。
「ブログでは『旅に出ます』というところで止まっているけれど、浜松に来ることだったの?」
マジシャンが種明かしをする前にお客さまに見破られた感じで、何とも彼ともバツが悪い。
写真、右の男。少し疲れた顔をしているが、この日、副作用と言えるような症状はなかった。
10月17日(火) 昨日とは会場を変えて、今日は浜松こども館。お客さまは幼い子どもたちとその母親である。 大きな段ボールの箱の中に子供たちが潜り込んでゴソゴソ… 何があるのかなと思ったら写真展を開いていた。左のキベラの写真は[19]で掲出したもの。ここでもお役にたっているのだ。 中央の二人はこれらの催しの推進役である。右の方がブログ「ちびっこにっき」の大橋弥生さん([111]のコメント参照)。左の方がこの夏、ナイロビに行かれたやつのりさん(下記のコメント参照)。このヤングパワーが2日間にまたがる催しを可能にしたのだと思った。
さて、左に立っているバブミッシェル。この日は大変だった。朝起きたら体温37.4度なので、ビビミッシェルに「今日は病人になったよ」と伝えてホテルで寝込んでいた。12時に起きたら体温37.1度。体が少し軽くなっていたので、クルマで昼食を摂りに行き、意外においしく食事する。
そのまま浜松こども館の会場に向かうが、本調子が出ないので、再びホテルに帰って寝た。
この日の夜、浜響クラブハウスで最後のライブが予定されていたのだが出向かず、我慢する。夕食後、平熱になった。抗がん剤治療後の4日目はいちばん副作用が出やすい時期である。
ちょっと無理したかなとも思うが、今回の行動は仕方ない!と自分自身で決めつけることにした。
10月18日(水) さて、浜松滞在4日目、最後の日である。昨日と違って、朝から元気いっぱい。
今回の旅行は体力温存のために観光は入れないようにしようと思っていたが、ひとつだけ、お寺の見学をすることにした。浜名湖から北へ6キロメートルほどの山中にある方広寺である。
案内書には「東海屈指の名刹」とあるのだが、60ヘクタールの境内に60余棟の伽藍を擁する禅寺である。堂々と風格ある建物や仏像にも目を奪われたが、それ以上に圧倒されたのは「五百羅漢」であった。数は500体どころか測定できない数で、そのすべてに対面はできなかった。 お地蔵さんって、何か考えているようだけれど、何を思っているのだろうね。聞いてみたい。 東名高速道路はリフレッシュ工事のために数10キロにおよぶ一車線があったが、交通渋滞にはあわず、夕刻には帰宅した。ビビミッシェルが「運転交替しましょうか」と言ったが、副作用もなく、快調だったためにバブミッシェルがズッと運転した。ラッキーな4日間だったと思う。
10月19日(木) この「外来でのGEM療法とその一週間」という項の7日目、最終日である。
1日目は病院での治療の話しであるが、2日目以降は何の制約もない日常となるので、どのようにしたら闘病記らしくなるのかがわからないまま終わろうとしている。副作用がどんな時に、どのように現れるかを不安に思う日々を描くべきではないかと思いながらも、現実は四六時中、アッケラカンと楽天的に過ごしているので、あえて表現するほどの内容もなかったのである。
4日目(17日)の朝、ホテルのベッドで目覚めて、副作用を自覚した時は嬉しささえ感じたものである。「これで闘病記らしくなった」ということだけでなく、抗がん剤が体をすり抜けて行くだけでなく、シッカリと反応してくれたという喜びもあった。病院で知りあった患者たちに聞くと、副作用は全くない人から悶え苦しむ人まで段階を踏んでいるのだが、反応の強弱はどのレベルが良いのか、医師に聞いても明快には応えてくれなかったのである。 外来でのGEM療法というのが、いつまでかわからないが、かなり長期にわたって続いてゆくはずである。このように一週間単位で、繰り返し、繰り返し、同じように継続してゆかねばならないのだ。もちろん、その間に何か良い変化があることを期待しながらではあるのだが… 相変わらず意識は「アフリカ向き」の気楽な闘病だなと思われる方が多いかもしれませんが、意識は常に外に向けていないと息苦しくなるのが、がん治療の特徴ではないでしょうか。 さて、このGEM療法について、こんな記録がありました。以下、NHKがん特別取材班が記録した「日本のがん医療を問う」(新潮社・2005年12月発行)からの要約と転記になります。
GEMとはジェムザールという抗がん剤ことであるが、これをすい臓がんの治療に適用したのは近年のことなのである。日本の制度ではがんの種類によって使える薬が決められているために、長年にわたって肺がんの治療薬であるジェムザールをすい臓がんに使うことができなかったのだ。世界的に標準使用されている薬が日本では承認されないという現実があったのだ。
これを使えるように活動したのは、医師や薬品会社ではなく、ひとりのがん患者だった。
「広島県庄原市の中学校校長だった新山義昭さんは、退職後、64歳の時にすい臓がんと診断され、地元の大学病院で『手の施しようがない』と告げられる。諦めきれなかった新山さんはくい止める術を探す中で、日本ではすい臓がんに使われていないジェムザールのことを知った」
「新山さんは地元広島を基点にして現状を伝える活動を始めた。やがて5万人の著名を国に提出した。粘り強く質問状や要請書を提出し続けて、厚生労働省の坂口大臣と直接交渉する機会も実現させ、2001年4月に承認された。地道な活動が2年の歳月を経て国に届いたのだ」
承認された翌年の秋、新山さんは亡くなっている。
しかし、今も「日本のがん医療を変えたい」という彼の遺志は引き継がれている。 写真は神戸市須磨区緑台の「コスモスの丘」のコスモスである。スポーツから離れているので、この丘を登ったり下ったりして、持久力や筋力の衰えを何とか維持したいと努力している。
南向きの4000平方メートルの丘陵地に、地元の幼稚園から老人会まで、いろいろな市民ボランティアが協力して10万本のコスモスを植え育てているのである。でも、今年は雨が降らないせいか、育ちが悪い。本来、たくましいコスモスなのだ。「お互い頑張ろう」とエールを交換する。
CDのご紹介 ミレレ(MILELE=永遠) Songs from Kibera マゴソスクールとマシモニユース
販売:フラヒエニ・アフリカ TEL;022-249-8433 amaniafrica@yahoo.co.jp 2500円
[84]でご紹介した「TWENDE NYUMBANI」の第二弾である。昨年の11〜12月にマゴソスクールの図書室での録音とある。何と1年がかりで発売に漕ぎ着けたことになる。ま、この1年間というのは、いろいろな事が有りすぎた。仕方がないことではあるのだろう。
第一弾ともっとも違うところは、8人の子どもをソリストとして立てて存分に歌わせていることである。声に幼さや可愛らしさを漂わせて、ゴスペルを歌う…というのが、大西匡哉プロデューサーの狙いであるのだろう。バックコーラスをつとめた子供たち、ミリティーニ村から応援参加したリズムセクションなどが、軽くて躍動感にあふれている。マシモニユースのソプラノ歌手であるジャネットの民謡も必聴。ライナーノーツに大西匡哉が「みんなでアレンジしながら録音した」と書いてあるように、創造性にあふれた収録風景が目に浮かぶ。
このCDの中の、カテンベくんのソロ曲「Nyoyo(心)」の日本語歌詞を書いておきます。
心の中は不安でいっぱい 神からの祝福を受けられるだろうか?
心配がいっぱいあっても 泣かなくていいよ 神の言葉を知れば心配もなくなる
神の言葉はとても大切 神からの祝福を受けるために
タピワ(TAPIWA=おくりもの) 近藤ヒロミ
TP-002:TAPIWAPI TEL & fax ; 098-949-7260 OKINAWA 2000円
多分、4年ぐらい前のCDになると思うが、近藤ヒロミの音楽に初めて接する方にはベスト盤ではないかと考えてご紹介します。ムビラ、カリンバ、太鼓、鉄笛を駆使したソロCDである。
彼女は東京で生まれ、関東方面で育った。鍛金を学び、アフリカを旅したのだが、ムビラ、カリンバ類にはまり、ジンバブエなどで修行する。以後の演奏活動はご存じの方が多いでしょう。
ヒロミさんには、数年前、ケニアに留学させた娘さんがいるのだが、本人は現地に向かわずに、もっぱら早川千晶さんのお世話になったという。その話しがヒントになっているのだが、最近の彼女の音楽はアフリカから離れてきているような気がする。それが、いま住んでいる沖縄流なのか、本来のヒロミ流になってきたのか、親指ピアノが日本の楽器になったのか……う〜ん!?]]>
[111] バブミッシェルの闘病記(5)
http://yonezawa.exblog.jp/5606582/
2006-09-02T19:46:00+09:00
2007-01-25T17:16:30+09:00
2006-09-02T19:46:39+09:00
yonezawa02
闘病の日々
8月16日(水)
今日はいい話しがあります。
昨夜、夕食が終わってテレビを見ていたら、うたた寝をしてしまった。30分ほどだったと思うのだが、そのために10時の消灯時間が過ぎても寝られない。うたた寝をしたことを悔やんでいると目がさえてくる。4人部屋なのでウロチョロはできない。ジッと睡魔がくるのを待っていたら、あることに気づいたのだ。「おやっ、お腹が痛くない!」
何と3カ月ぶりにお腹や背中の痛みがなくなったのだ。身が軽くなった。何か、スポーツをしたい気分になっている。スポーツと言えば、この闘病記にはあまり書いていないが、入院前に腹痛があるまま、3時間ほどのテニスを3〜4回ほどしたが、何の支障もなく、気持ちよくできた。
7月11日に入院したときは痛みを「3」としていた。2週間ほどして、昼間はほとんど痛みを感じないのだが、夜、寝る前と、朝、起きたときに痛みを感じていたので「1」とした。そんな時期が3週間以上続いて、ついに痛みがなくなったのだ。心底から嬉しい。
今朝6時の看護婦さんの回診のときに、胸をはって「今日から痛みを0にします」と言った。看護婦さんも我がことのように喜んでくれた。
消化器内科のG医師の朝の往診のときにも、痛みが無くなったことを伝えると「良かったね。でも、その痛みはすい臓がんとは関係がないと思う」と言った。がんと関係のない痛み…だとすると、それは何だったのだろう。A病院で診てもらおうと思ったのは、腹痛と便秘だった。便秘はすぐに治ったのだが、B病院で医師を変えながら、しつこく診察を続けたのは腹痛にシグナルを感じていたからである。このシグナルがなかったら、今もこの難病を抱えながら、水面下では静かに進行させながら、のほほんと過ごしていたに違いない。
春の終わりを告げる頃、彼は僕の体内に進入してきた。
彼はシグナルを送り続け、僕はそれに従って行動した。
残暑が厳しいこの日に、突然、彼は立ち去った。
僕は「ありがとう」と「さようなら」の
ふたつの挨拶をしたかったのだが…
8月22日(火)
一昨日の日曜の午後8時、外泊先の我が家から病室に帰ってきたら、空きベッドになっていた隣りに、新規の患者が来ていた。仕切られているカーテンがピッタリ閉まっているので、挨拶もしないままに我がベッドに横になり、テレビを観ていたら、隣りのベッドには夜遅いのに医師が来るし、看護婦さんがたびたび来る。最初は入院直後の患者なんだなと思っていたら、10時の消灯時間を過ぎても、その状態が続いた。「重病の患者なのだ」とやっと気づいた。
看護婦さんを呼びつけて溲瓶(しびん)で用足しをする。夜中なのに携帯電話で自宅と連絡をとっている。あまり動けないはずなのにロッカーを開けたり閉めたり。意味不明のひとりごとも言っている。騒々しい夜となった。多分、精神的にも不安定になっているのだろう。
翌日の朝、その患者の奥様が来られて、いちばん最初にバブミッシェルのベッドをのぞきこんで「随分ご迷惑だったでしょう」と言われ、「いやぁ〜」とだけ言って笑ってごまかした。が、正直なところ、この病院に来て、初めての睡眠不足の朝を迎えていたのだ。
昨夜も同じ状態が続いた。隣りの患者自身もほとんど一睡もしていないことを看護婦さんに報告してる声が聞こえた。バブミッシェルとしては「大変な方と隣り合わせになったものだ」と思っていたら、今朝8時ごろ、看護婦さんが3人も病室に来た。「何かあったの?」とたずねたら、「こちら、個室に移られることが決まりましたので」とのこと。つまり、もともと個室に入るべき患者なのだが、空きがなくて一時的にこの病室にいたということなのだ。
奥様から聞いた話しだが、この方は胃がんが肝臓やその他の臓器に転移して、この2年間に2回手術し、この病院には8回目の入院らしい。今回は急に食事を受け付けなくなり、嘔吐(おうと)などがあり、一昨日の日曜日に緊急入院したらしい。
この病院に入院して43日目だが、このようにがん患者らしい方と接触したのは初めてである。これまでは一定のレベルの患者だけが集められて隔離され、心の平静を保ってきたように思う。今回のようにイレギュラーがあり、重度の方と接触すると「やがて我も…」という不安に駆られる。そして、この闘病記も症状が軽いからこそ可能なのであって、重度になってくるとキーボードが叩けるかどうかという問題になってくる。体力よりも、心の平静さを保つことが難しそうだ。
8月23日(水)
急に退院の日が決まった。こちらとしては来週月曜日のCT撮影を終えた後で退院と決め込んでいて、G医師にも話して互いに了解を得ていたのだ。ところが病院側からチェックが入った。
G医師が申し訳なさそうに「私の意志じゃないんですよ。この病院は入院待ちの患者が大勢いる。治療が終わったら、すぐに退院してくれとのことなので」と言った。退院日は明後日の金曜日。その日は午前10時頃まで最後の抗がん剤治療があって、昼食時間前には退院してくれとのこと。46日間にわたって入院していたのに、最後は何という慌ただしさ、呆気なさなのだろう。
8月24日(木)
放射線治療の30回目を迎えた。ラストデーである。バブミッシェルの場合、がんの治療はまだまだ続くことは確かなのだが、この放射線治療が後の治療で復活することはないらしい。
その理由を知りたい。他の臓器を傷つけることを懸念してのことなのか。病院としての設備面での限界のために30回を限度にしているのか。それとも、7月19日で書いたように日本では放射線治療を軽視しているということなのか。最近、互いに言いたいことが言える間柄になったG医師に質問しても、この件についてのわかりやすい応えはなかった。
最後の治療もいつもの技師二人が手慣れた調子で進めてくれた。体の前後左右の4カ所から10秒ずつ照射するのだが、放射線を発する機械がゆっくりと重たそうに、体の周りを移動する。でも、こちらも慣れたためか、5分ほどであっけなく終わる。
「このベッドに横になることは、もうないんだ」と思っていたら、技師の一人から「今日が最後ですね」と声をかけてくれた。「そうなんです。お世話になりました」と応えたら「お腹と脇腹のマジックインキの印の上に貼ったテープは、お風呂に入った時にゆっくり剥がしてください」とのアドバイスを受ける。このマークは入院よりも4日前だから、49日間もつけていた。その間、消えることがなかったのだから、ほとんど入れ墨のようなものだった。
身支度をして、いつもよりも丁寧に挨拶して立ち去ろうとしたが、受付係の女性に至るまで次の患者の対応に忙しそうで、それは叶わなかった。
8月25日(金)
朝6時、いつものように周りがザワザワしてくるので、こちらも仕方なく起床する。1階の自動販売機にヨーグルトを買いに行くのが最初の日課になっている。ラフィキくんを連れて廊下に出ると「退院の日ですね」と看護婦さんが挨拶してくれる。「いやぁ、また、すぐ入院するからよろしくね」と応える。エレベーターの前に立っていると別の看護婦さんが「今日、午前中なんでしょう」と声をかけてくれるので「ちょっと長い外泊みたいなものだから」と笑ってみせるが、どうも気持ちが晴々しない。
いつもは午前10時から11時頃にかけて終了する抗がん剤治療が、今日は9時前に終わる。看護婦さんが最後だから輸液ポンプのスピードを早めてくれたのだ。早速、ラフィキくんを切り離す。看護婦さんに「ラフィキくん、さようなら」とサインさせてくれないかと言ったら、楽しそうに笑いながら「これ、買い取ってくださるならOKよ」とのお応えだった。
入れ替わりにG医師が病室にあらわれる。「カテーテルを抜きましょうか」と言ったので「どこでしますか」とたずねたら、連れてきた看護婦さんに相談して「このベッドの上でしましょう。血が出るかもしれないので寝間着は脱いでください。すぐ終わりますので」と言った。
カテーテルとは、入院2日目、7月12日に書いたが、首の下、右肩の内側に穴をあけて、抗がん剤を静脈に流し込むためのパイプのことである。留置(手術とは言わないらしい)の時は医師、技師、看護婦さんが4人がかりで30分ほど要したが、抜くのは5分ほどだった。でも、パイプを固定するために縫いつけた糸を切るときは痛かった。が、幸いに出血はなかった。
ビビミッシェルに携帯メールで「治療は終わった。迎えたのむ」と送る。そして、ロッカーなどに入れてあった荷物をまとめて帰宅の準備にかかった。
この病院に入って、先輩患者の退院風景を何度も見てきたが、何とも殺風景なのである。何の儀式的なこともしない。退院する側としては、それなりに感慨深いものがあるのだが…
この原稿を書いているときに、タンザニアの旅行社の根本利通さんから[108]にコメントが届いた。そこに観光客が帰国する直前に「クワヘリ会」を開く話しが記されていた。クワヘリ(Kwa heri)とはスワヒリ語で「さようなら」という意味になる。そうなんだ。病院でも「クワヘリ会」を開いてほしいのだ。儀式化したもので良い…と思うのだが、何をしたらいいのか思い浮かばない。46日間にわたって治療をした「しるし」が欲しいのだ。
ビビミッシェルと共に荷物を持って病室を出るときに、親しい看護婦さんが「ナース・ステーションに挨拶しに来てね」と言った。その通り、ステーションの中に入って、忙しそうな看護婦さん達に頭をさげてまわったのだが、その時だけ、少し改まった気持ちになった。
8月28日(月)
外来でCT撮影をする。CTはすい臓がんを発見してくれたB病院で2回、このC病院でも3回目になる。今日は珍しく女性のCT技師が担当してくれた。何か、いいことがあるかな。
8月31日(木)
さて、46日間にわたる入院生活での総括の日である。
ビビミッシェルと共に、クルマでC病院に外来として行く。神妙な気持ちになっている。
診察時刻は午後2時30分となっている。消化器内科のG医師が朝から大勢の患者を診察した後、もっともゆっくりとお話しができる時刻ということらしい。
名前を呼ばれて診察室に入る。すでにモニターには3日前に撮影したCTの映像が映し出されている。お互い、ほとんど挨拶もしないままに、診察結果についての報告になる。
「8月1日にCT撮影したときと同じで、変化なしです。あなたはガッカリされるかもしれませんが、これも治療の効果です。患部が大きくなっていないし、転移もありません。すい臓がんというのは、やっかいな病気です。治療効果の目標を高く設定することはできません」
ああ、何という話しだ。バブミッシェルもビビミッシェルも言葉なく、うなずくだけだった。
レポートの所見のところを転記しておきます。
・膵頭部の腫瘍は前回と大きさ、性状、脈管浸潤の程度はほとんど変化はありません。
・総胆管との間には浸潤は否定的であり、変化を認めません。
・膵癌、治療後、あまり変化ありません。
今後の予定としては、9月11日に再入院して、抗がん剤「ジェムザール」の治療が始まる。期間は3週間ほど。順調に行けば、9月末に退院になるだろうとのこと。
9月17日(日)
タンザニア人とケニア人、二人の方からメールでお見舞いが届きましたのでご紹介します。
ひとりは、このブログの本編ともいうべき、タンザニア滞在期間中、ずっとステイさせていただいていたワンブラさんです。文章はご主人のワンブラ医師ですが、彼は8年前から5年間、神戸大学医学部で研修していた内科医ですから、この病気については詳しいし、こちらの医療機関のこともよく知っています。でも、彼への病気の件での連絡が遅くなったのは「過度に心配をさせたり、戸惑わさせてはいけない」という配慮など、複雑な気持ちがありました。
スワヒリ語について。冒頭のMpendwaは英語のdearで「親愛なる」といった意味になります。
poleは岩合日出子の名著「アフリカポレポレ」(新潮文庫)のように2語続くと「ゆっくりと」ですが、1語だけだとsorryと同意語で「お気の毒に思います」と同情的な意味になります。
Mpendwa Noriji Yonezawa na Familia,
We are really shocked and I can not believe.
We don't know what to do because we want to see you and say "pole"
We are really sorry for the family.
We believe the Japanese doctors are good enough to help here.
Anyway, we are at far but believe we are together.
We shall write frequently
We are waiting to see what we can do
In deep sorrow,
Wambura and family
もうひとりは、ケニア人のジュッキさんと言い、神戸大学で教鞭を執っていた物理学者です。
彼とは10年前からの知り合いで、ワンブラさんを紹介してくれたのですが、7年前にカナダの大学に赴任して疎遠になっていました。娘の佳織が「父の病気」について伝えたようです。
Hello Mr. Yonezawa,
chotto hisashiburi no tomodachi desu.
I live in Montreal now. Very cold city! but life is okay.
I heard some news from Kaoru.
I am sorry you are not well. Demo, Gambatte kudasai.
I hope to talk to you soon.
Best regards to Mrs. Yonezawa.
Njuki Mureithi
9月11日に再入院し、13日と27日にジェムザールという抗がん剤治療をし、9月30日に退院した。退院後は週一回の通院だから「ゆとりある生活」に戻れると思ったのだが、結構、忙しい日々になっている。玉川温泉リポートも含めて早く入稿したいのだが、作業が遅れています。
入院中も退院後も体調は良好である。よく食べて、よく動いている。これで患部が小さく小さくなってくれれば最高なのだが、なかなかどうして、簡単にそのようには……(10月6日(日) 記)
10月6日(金) 突然、京都に行った。嵯峨野で農作業をしている方と話していたら「小松菜を持って帰らないか」ということになり、200円分わけてもらった。まさにトレトレの京野菜である。おいしかった。がん病棟で食欲不振になっている患者たちに食べさせてやりたいと思った。
背後は俳人の去来が住んでいた庵「落柿舎」である。このあたりは何年たっても変わらない。
10月7日(土) のじぎく兵庫国体は高砂市民球場の高校野球や豊岡市立体育館の卓球など、一部の会場では盛り上がっている。でも、我が家のそばの陸上競技会場はご覧の通りの普通の国体である。]]>
[110] バブミッシェルの闘病記(4)
http://yonezawa.exblog.jp/5519489/
2006-08-20T11:47:00+09:00
2007-01-25T17:14:22+09:00
2006-08-20T11:47:25+09:00
yonezawa02
闘病の日々
8月7日(月)
6階東病棟の中央にはナース・ステーションがあるのだが、その向かいに面会コーナーがある。面会が午後3時から8時に限られているために、それ以外の時間に来られた方は病室に入らずに、この面会コーナーでお話しをしてくださいということである。
ところが、少し進行した患者で思うように身が動かない場合、家族の方が朝から夜まで付き添ったりするし、病室から出たがらない患者も多いのである。そんな人たちに看護婦さんだって「今、面会時間ではないので病室に入らないでください」とは言えないのである。
そんなことで「面会コーナー」は面会のためのスペースとして使われることは少なく、患者同士が交流する場になっているのだ。窓からは漁船が行き交う瀬戸内海が一望できるし、10人ぐらい座ることができるソファーもある。みんな、ゆったりとした気分で話しあえるのだ。
ここでの一番の話題は互いの病状の情報交換である。6階東病棟の場合、消化器内科から送られた患者ばかりなのだが、患っている臓器は違う。食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肝臓、すい臓、胆のうなど。臓器によって少しずつ治療方法は違うし、他の臓器に転移している人と転移のない人とでは全く違ってくる。そして、転移した箇所が1カ所ならともかく、2カ所以上になると放射線治療は行わずに抗がん剤治療に徹している場合が多いようだ。
バレーボールの選手を思わせるような大柄な女性患者から、ちょっと珍しい話しを聞いた。
彼女のがんは転移した箇所がわかっていても、もともとの患部がどこなのかわからない。本人は「線香花火」と言っていたが、小さくアチコチに転移がんが飛び散るのだが、どこからなのか不明なのだ。そんな人に限って抗がん剤治療がとても良く効くのだ。何日か抗がん剤治療をすると、すべて消え去るらしい。でも、退院後しばらくすると、検査でまた違った箇所に小さな転移がんが見つかるとのこと。このC病院には昨年10月から最新の検診機PET(陽電子放射断層撮影)もあるのだが、そんな機器を駆使しても、もともとの患部は見つからない。現在、消化器内科の病棟にいるが、ひょっとすると消化器以外の臓器が原因かも知れないのだ。バブミッシェルが初めて会ったのは彼女が退院の日だったが、たびたび入院しているので先輩患者たちとは親しい。ここの患者としては珍しく、ほとんど全快の状態で退院するので表情は明るい。「でも、またすぐに来るからね」と言いながら、付き添いの人もなく帰宅の途についた。
8月8日(火)
前日(8月7日)に引き続き、面会コーナーで聞いた話しになります。
面会コーナーに集まる人は、なぜか、すい臓の患者が多いのだが、皆さん、一様にすい臓がんであることを発見するまでに「より道」「まわり道」をしているようだ。
この闘病記の第一章とも言うべき[107]には「ある発見までの道のり」というタイトルを付けていますが、すい臓がんは発見することが難しい。随分、日数もかかったし、何人もの医師の診察を受けたことを述べた。多分、通常の健康診断では見つけることができない。見つけるためには、何か「偶然」のようなものが伴わないと無理ではないかと思ってしまうほどである。
《すい臓がん発見例・その1》
加古川市に住んでいる川崎さん(仮名)は73歳の男性。当時、日本の基幹産業と言われた神戸の造船所に就職し、若い頃は多忙な日々を過ごした。やがて不況。辛苦な時もあった。でも、今は造船業界は盛り返しているのだが、川崎さんはリタイアして、すでに10年ほどになる。
今年2月、突然、会社から電話がかかってきた。「ご存じと思いますが、今、アスベストの被害が問題になっています。造船の場合、内装などでアスベストを使用していた時期があります。川崎さんは健康に過ごされていて、多分、大丈夫と思いますが、念には念ということで、当社直属の病院で健康診断を受けていただけませんか」というものである。
退社後は十分な健康診断は受けていないこともあって、快く承諾した。実施したのは4月下旬だった。アスベスト被害は容易に見つけにくいものらしく、川崎さんの想像を遙かに上まわる綿密な検査だったらしい。レントゲンも何枚も撮り、CT撮影もあった。検査費用は数万円を要するものらしいが、会社持ちで、交通費まで支給された。川崎さんは会社の厚遇に満足した。
検査の翌日に病院から電話があった。「アスベストが影響したものではないと思われますが、すい臓に陰のようなものがあります。お手間をおかけしますが、近日中にもう一度、検査させていただけませんか」というものであった。これがスタートラインとなって、この1カ月後、川崎さんはC病院にてバブミッシェルと同様の抗がん剤と放射線の治療が始まっている。
アスベスト問題はある企業の尼崎工場が発生源となって、急に世論が高まったのだが、そんなことが特殊な検査を受けるチャンスになった川崎さんは、幸運な人と言えるのではないだろうか。
《すい臓がん発見例・その2》
淡路島に住んでいる岩谷さん(仮名)は57歳の男性。公務員である傍ら、農業にも従事している。ある日、痔でもないのに、お尻がヒリヒリ痛むので行きつけの病院に行った。いろいろな検査をしたが、医師からは決め手となるような診察結果が得られない。
その地域にはCT撮影ができる病院もなかったのだが、何度目かの診察の時に「エコー(超音波検査)をしてみませんか」と言われた。お腹にゼリー状のものを塗り、超音波を発生させて、それを探索する器具を擦り付けるのだ。超音波でキャッチされたものは映像化してモニターに映し出される。影像が医師に見えるだけでなく、患者にも即刻見られるのがエコーの面白いところなのだが、結果として何も疑わしい箇所は見つからなかった。
少し間をおいて、医師は「じゃ、背中の方からもエコーをしてみましょう」と言った。岩谷さんは背中と言われて「なぜ?」と思ったらしい。案の定、影像はゴツゴツとした骨が前面に出てきて、骨と骨の間から「断片的な情報」として臓器が少し映し出される。その影像から「すい臓がヘンだ!」となったわけである。腹部からは胃が邪魔をして見えなかったものが、背後からの「断片的な情報」はわずかなものではあったろうが、発見のチャンスがあったのだ。
この話しを面会コーナーで聞いたときに、バブミッシェルは拍手をした。淡路島の医師は近代的な検査機器に恵まれていなかったのだが、使い慣れた機器を駆使して岩谷さんを助けたのだ。こんなヒューマンな話しって、そんなに多くないのではと思ったのだが、いかがでしょう。
8月9日(水)
前日(8月8日)、淡路島の岩谷さんのことを書いていたら、それと対峙するという意味を込めて、王貞治監督のことを書きたくなった。王さんの場合、胃がんの摘出手術の方法で注目を集めているが、ここでは発見までの過程に触れておく。
王さんは体調管理には気を配り、年に2回は人間ドックを受け、2年前からPET検診も取り入れ、がんの早期発見に心がけていたという。そこで、我々、庶民派として思うのは「人間ドック」プラス「PET検診」というのは、いかほどのものなのか知りたいのだが、それを書いたものに出くわしていない。2ケタ万円なのか、3ケタ万円なのか。有名人なので安いのか。
でも、王さんの胃がんは「人間ドック」プラス「PET検診」では発見できなかったのである。胃もたれを感じたために行った福岡市の病院の検査で腫瘍が見つかっている。このことに多くのがん検診の専門家が「人間ドック」プラス「PET検診」を行っていた病院を擁護するコメントを出しているが、合点できない。日本人の二人に一人ががんになる時代である。早期発見のためにこれ以上がないほどの検診をしてもダメだとすると、我々は何を目指したら良いのだ。
8月10日(木)
木曜日は担当医から翌々日の外泊の許可を取る日である。バブミッシェルの場合で言えば、朝と夜に往診してくれるG医師に「次の土曜から日曜にかけて外泊させてください」と申し出るのである。今日もそうだったが、これまでの土曜と日曜はすべて許可された。
ところが、バブミッシェルよりも若くて、元気の良さそうな患者でも許可されない場合が多いのである。何を基準にして許可と不許可が決まるのかわからないのだが、看護婦さんたちの監視下にいないと安心できない患者とそうでない患者がデータから色分けされるのだろう。
今日に限って、ちょっと面白い話しがあった。担当医から「あなたは普通なら許可されないのだが、お盆休みに入ることだし、特別に許可します」と言われた患者がいたのだ。恩赦ということである。理由は何であれ、本人にとっては嬉しい。たまには外の空気を吸いたいのである。
8月11日(金)
朝食のすぐ後、毎朝8時20分から50分頃までの間にG医師の往診がある。1階での外来受付が9時からなので、彼はその前の30分ほどの時間に自分が担当する入院患者たちに会って短く話しをして、患者からの要望を聞いたり、体調などを調べているのだ。
今朝はそんなせわしない時に、バブミッシェルの今後の治療計画についての話しがあった。
それによると、今、行っている抗がん剤治療と放射線治療が終了するのが、8月25日の午前中である。退院は28日か29日。その後、2〜3週間ほど間をおいて再入院してくれというもの。次は4週間ほどのジェムザールという抗がん剤治療になる。ジェムザールについては、親しい患者仲間がすでに治療を受けているので予備知識は多少あるのだが、ここでは省きます。簡単に言えば、現在投与している5FUよりも強い抗がん剤である。抗がん剤の場合、「強い」という言葉が出ると「ハゲる」に繋がるのだが、先輩の患者たちの頭を見た感じでは、さほど心配はなさそう。バブミッシェルはもともとウスメなので目立ちにくいと思う。
8月12日(土)
世の中、お盆休みにギアチェンジされた。テレビのニュースで交通渋滞の状況が映し出される。民族大移動が始まったのだ。でも、このがん病棟にはお盆休みはないのだ。今日と明日の土曜と日曜は、通常通り、外泊を許された患者は外泊できるし、診察などはない。でも、月曜日以降は治療が始まるし、検査や診察が行われる。医師や看護婦さんは夏休みを交替でとっているらしいが、それを感じさせない忙しさが続くのだ。
さあ、土曜日。バブミッシェルは午前10時には抗がん剤治療を終え、ラフィキくんを切り離してもらう。11時、外出用の服装になったところへビビミッシェルがクルマで迎えにくる。帰宅の途中、明石のショッピング街を通るのだが、そこで昼食をするのが習慣化してきた。
明石の食べものの名物と言えば、ご存じの通り、たこ焼きがある。板の上に乗せられたたこ焼きをだし汁で食べる。店数は多いし、人気店は行列ができる。お盆休みのために一段と行列が長い。地元では「たこ焼き」とか「明石焼き」と言わずに「玉子焼き」という表示になっている。
これに次ぐ明石名物はうどんではないだろうか。さぬきうどんの本場と瀬戸内海を隔てて向かい側になるためか、昔から「さぬき風」の手打ちうどん屋が多い。客からも見えるように五右衛門風呂を思わせるような大釜を置いて茹であげるうどんは美味である。うどんの上に自分でトッピングする、ニュータイプのうどん屋も最近は増えている。
バブミッシェルとビビミッシェルがよく行くのは、もんじゃ焼き風のお好み焼きをたこ焼き用のだし汁で食べる店なのだが、食べなれるとクセになる食感である。
一週間ぶりに我が家に帰る。冷房がしっかり効いた病院と比べるとムッする暑さに閉口するが、すぐに慣れる。帰宅の時刻を待ち受けていたように、川崎市在住の5歳の孫から電話がかかる。
「僕ねぇ、水泳で頑張っているんだよ。ジジも頑張ってね。病院でお友達できたの?」
「病院に入って1カ月になるから友達はいるよ。看護婦さんも話し相手になってくれるし…」
賑やかなお盆休みを過ごしている方が多いでしょうが、こんなのが我が家流なのである。]]>
[109] バブミッシェルの闘病記(3)
http://yonezawa.exblog.jp/5425719/
2006-08-06T11:03:00+09:00
2007-01-25T17:12:40+09:00
2006-08-06T11:03:29+09:00
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闘病の日々
7月18日(火)
7月13日に30回、1カ月半にわたって行う治療は、放射線治療と抗がん剤治療の併用であると書きましたが、まだ放射線治療について述べていませんので、少し書いておきます。
レントゲン博士が放射線を発明したのは1895年ですから、111年を経過。その間にこれほどまでに発展し、活用の領域が拡がるとは博士も想像しなかったでしょう。我々が普通使っている「レントゲン」という言葉は検査するためのものだが、ここでは治療用としての放射線になる。
治療用の放射線の一番の特徴は、病気の細胞に当たると容易に死滅させてしまうのだが、同じ量の放射線を正常な細胞に当てても受けるダメージは少ないということである。治療用の放射線には電子線、ガンマ線、エックス線の3種類があるが、バブミッシェルの場合、エックス線の治療である。エックス線は体の深いところの病巣を治療するのに適しているらしい。
バブミッシェルの患部はすい臓の頭部(上側)なのだが、すい臓というのは胃の裏側、かなり奥まったところにあると思っていただきたい。でも、この難しい位置にある臓器にも「リニアック」と呼ばれる放射線治療器はピンポイント照射をすることができるのである。7月7日に書いた、お腹や脇にマジックインキで描いた+マークを基点にして、照射技師が位置を決めるのである。前側から、背後から、右脇から、左脇から…と4方向から、それぞれ10秒間ずつ照射をしているのである。照射している時は「ビビビビ」とセミの啼き声のような音がするが、痛みなどはない。
このピンポイント照射は日本人の得意な分野なのかもしれないが、放射線治療そのものが日本は後進国なのである。がんに対する放射線治療の利用率は欧米の1/3とある。バブミッシェルのごとく、我が身を切ることに人一倍恐怖感を持っている者には良い治療法だと思うのだが、日本の医療はデータが少ないものに臆病になる面があるのだろうか。
バブミッシェルの場合、毎日、午前11時30分に照射をしているのだが、これには理由がある。すい臓が胃の後ろにある関係で照射時には胃が膨らんでいると難しくなる。そのため、照射前3時間30分は食事を摂ったり、水を飲んだりしてはいけないのだ。病院の朝食時間は8時なのだが、7時40分には食堂に行って待ちかまえていて、運ばれてきたものをサッと食べるようにしている。朝食の時だけが、何とも、いじらしいほど生真面目にやっているのだ。
7月19日(水)
前日(7月18日)に続いて、放射線治療の話しになります。
今年6月に成立した「がん対策基本法」で放射線治療の専門家を養成する必要性が盛り込まれた。手術よりも体の負担が少なく、臓器の機能を保つことができるため、高齢化が進む日本で広がることが期待できる。そして、マスコミも放射線治療に関する記事が多くなってきた。
そんな中で、アメリカの専門家の側からは日本のがん治療がどのように見えるかを紹介した毎日新聞の記事がありましたので転記します。語っているのはテキサス大学がんセンター放射線腫瘍科のリツコ・コマキ教授です。アメリカで30年以上医療に従事しておられる日本人の方です。
「日本では外科が、がん患者の治療を牛耳(ぎゅうじ)っているように見えます。がんが見つかれば、まず手術という流れになっているのではないでしょうか。日本には放射線科医が全国で500人しかいないそうですね。今、私がいるセンターだけで、放射線科医が50人、治療装置を開発する物理学者が60人、治療計画を立てる専門家が70人、放射線技師が80人います」
「日本人には放射線に対する恐れが残っているのだと思います。放射線が正確にがんに当たれば根治も可能です。患者への負担が小さい放射線治療はもっと広がるはずです。手術で摘出するだけが、がんの治療法ではないのです。放射線科医だけでなく、サポートする専門家を増やし、手術重視の常識を変えるべきです。患者を第一に考える治療方法を選択するべきです」
この記事を読んでバブミッシェルが最初に思ったのは、7月11日で記載した某週刊誌の「『がん総合』のいい病院」の記事のことである。ここでは「手術」は最重点評価になっているが、「放射線治療」は評価の対象になっていない。日本では比較できないほど小さな存在なのだろうか。ちなみに、我がC病院の放射線科医(他病院の兼任医も含む)は5人、放射線技師も5人である。
7月20日(木)
6階東病棟には47の患者用ベッドがあるのだが、入院患者の平均在院日数は23日と意外に短期の方が多く、その関係で常に空いたベッドが多い。ということで、この病棟の入院患者は通常40人ほどではないだろうか。その40人の患者に対して、1人の看護婦長と24人の若い看護婦さん(もちろん中年の方もいると思うが、白衣を着て働いている姿は若々しい)が当たってくれている。
24人と言っても、交替で休日出勤もあれば、夜勤もあるので、多忙なウイークデーの昼間でも10人少々で看護に当たっている。いろいろな職業を見てきたつもりだが、これほどまでに常に精神的に張りつめて、体を動かし続けている人たちを見たことがない。過酷さに感服する。
この看護婦さんたちの詰め所を「ナース・ステーション」というのだが、空港の管制室のごとく周囲を見渡せるように設計されており、病棟の中央に陣取っている。この部屋だけが24時間、眠ることがない。病室からの情報はインターホーンなどでここに集まる仕掛けになっている。
ちなみに、バブミッシェルも1日に2回はインターホーンでお願いして看護婦さんに病室に来てもらうことがある。それはお風呂の時間である。
お風呂は家庭用システムバスが病棟の一角にあり、40人ほどの患者が一人ずつ入浴するのである。朝9時から夕刻6時にかけて、交替で入る。ローテーションで順番が変わるので、午前のこともあれば、午後のこともある。お風呂は夕食後と決めている者には面食らう習慣ではある。
そのお風呂の時間になると、抗がん剤を点滴する器具「ラフィキくん」を一時的に切り離すのである。寝るときも、トイレのときも、いつも一緒のラフィキくんが、入浴タイムだけ別々になるのだ。切り離しには液が逆流しないように特殊な溶液をパイプに注入したりするので、看護婦さんの手を借りないといけないのだ。入浴後も看護婦さんに来てもらって繋いでもらう。
7月22日(土)
待ちに待った土曜日である。外泊が許可される。この日は忙しい。昼前にラフィキくんの点滴が終了し、看護婦さんに切り離してもらって、外出用の服に着替える。そこへビビミッシェルが迎えに来て、一旦は家に帰るが、準備されている荷物を持ってクルマで神戸空港に向かう。神戸空港…今年3月に開港したばかりなので、キャンペーン料金がある。新幹線よりも安く利用できる。午後3時35分に飛び立って、約1時間で羽田に着陸する。そこからは電車移動でJR横須賀線の西大井駅に下車。7月8日に書いた気功治療の積明(じゃくみょう)さんの家に向かう。(積明さんと気功治療に関しては後ほど詳記します)
7月24日(月)
ある入院患者から病院の投書箱に意見が寄せられ、掲示板に掲出された。
「すき焼きの味つけが薄いうえに、春菊を加熱しすぎのため、苦みが全体に広がり食べられるような味ではなかった。こういう食事には春菊を使用することはどうなのでしょうか」
これに対する病院側の回答も同時に掲示された。
「春菊は緑黄色野菜を摂取することと、彩りの観点から使用していますが、今後は加熱しすぎることがないように調理の工夫をします。また、青ねぎに変えるなど、食材の検討をします」
バブミッシェルはこの短い文章でのやりとりの中に病院食の問題点が凝縮されていると思った。
病院食の基本のひとつに「なま魚」と「なま野菜」を避けるというのがある。
病院でもって、おいしいお寿司や刺身を食べたいとは思わない。予算のこともあるので、トレトレの鮮魚を患者に饗するのは難しいだろう。好みの問題があるので万人向けとは言い難い。
問題は野菜をどのようにおいしく、見た目にも美しく調理するかではないだろうか。
上記の提案者が述べているように、総じて煮込みすぎの場合が多い。消化を良くするためもあるだろう。安い輸入野菜を利用するときは、調理人の脳裏には農薬問題があるだろう。でも、原形をとどめないほど煮込んだ野菜には食指が動かないものなのだ。
もうひとつには食感を良くするには何をすべきかがある。野菜の場合は限りなく生(なま)に近い状態で食べることなのだが、運動不足な入院患者たちを見ていると不向きな感じである。
病院食の野菜の煮込みすぎは調理する側だけに否があるとは言い難い。むしろ、長年の経験上からこのようにならざるを得なかった経緯があると思う。でも、無農薬とは言わないが減農薬の、新鮮な野菜を仕入れることに努力していただいて、おいしい野菜料理を食べたいものである。
なお、上記の提案者の発言の中に「味つけが薄い」とあります。病院食を語るときによく出てくる言葉だが、C病院に限って言えば、それはないと思う。他の病院から転院してきた患者が「ここの食事は味つけだけはいい」とほめていた。味つけは塩分摂りすぎのこともあるので、そこそこにしておいて、濃い味が好きな人は調味料持参で食堂に向かうべきである。
7月25日(火)
このブログは「戦う」とか「戦士」とか勇ましい言葉が出てくるが、「一体、あなたは何と戦っているの?」とたずねられると少し困るのだ。病院生活は楽しいし、肉体的な苦痛はほとんどないし、がんという病気は実体が見えにくいのである。相手がファイティングポーズで向かってくれば迎え撃つのだが、姿を見せずにコソコソ、ネチネチと静かに迫ってくるのだ。
放射線治療や抗がん剤治療は戦っている姿とは言えない。前者は技師に任せてジッとベッドに静止しているだけだし、後者は化学物質を静脈に流し込む作業を落ち度なく進めているに過ぎない。いずれも医師の指示に従ったパッシブな行動であって、戦っている実感はない。
そこで、昨日、7月24日に続いて食事の話しになります。
病院での一日を振り返って、あえて戦っている時があるとすれば食事の時間ではないかと思う。
午前8時の朝食、午後0時の昼食、午後6時の夕食とあるのだが、朝食はワンパターン。パンと牛乳ともう一品。もう一品がゆで卵であったり、バナナであったりするのだが、これを食べるのは簡単だ。問題は昼食と夕食である。毎日、食欲がわかないままに食べているのである。
G医師に相談したら、抗がん剤治療の副作用だろうということなのだが、食欲がわかないことが、これほどまでに苦しいことだとは思わなかった。毎回、食事前2〜3時間は食欲をわかせるための行動に出る。ラフィキくんと共に移動できる範囲で散歩をするとか、冷たい水を飲んで胃を刺激するとか、汗をかくような入浴方法にするとか…いろいろなことを試みるのだ。
もちろん、この問題はバブミッシェルだけのことではなく、入院患者の半数以上の人が苦しんでいるのだ。だから、入院したときに「食事量記入用紙」というものを渡され、患者各自で記入し、それを見て看護婦さんがパソコンに打ち込み、個々の患者のデータにしているのだ。
「食事量記入用紙」の記入方法について書いておく。○月○日の昼食のところに「8/7」と記入すると、おかずを8割、ご飯を7割食べたことになる。完食すれば「10/10」なのだが、朝食はほぼ毎日、昼食と夕食もどちらかが「10/10」になるのだが、もう1回は「8/8」から「5/5」ぐらいに落ち込む。食べ終わって残飯入れに残った食材を捨てるときの気持ちは例えようもないくらい辛い。
7月26日(水)
食事の話しが3日間連続になるが、実際に出される昼食や夕食の取り合わせについて書きます。
まずは、白いご飯。たまに、海藻などを炊き込んだものも出ます。
次いで、メインディッシュは近海魚が多い。なまはダメ。焼いたものもほとんどなく、煮魚が多いのです。一昨日書いた「すき焼」のように、肉と野菜を煮込んだものもよく出ます。
そして、小鉢もの。酢の物であったり、野菜を和えたものであったり。
最後は、みそ汁。妙に小さい椀に入っているのは、塩分摂りすぎを危惧してのことなのか。
この4品を乗せたトレイが、調理室から保温装置の付いたワゴンで運ばれてきます。自らの病室に運んで食べる方も多いのだが、バブミッシェルは食堂で食べる。
さて、この4品を食欲がないままに食べるには、どのようにしたら良いのかについて、先輩患者に教わり、実際にバブミッシェルが実行していることを述べます。
とりあえず、白いご飯には蓋をしたまま、おかずから食べ始めます。魚を食べ、和え物を食べ、口の中を整えるためにみそ汁を飲む。そのおかず3品が完食できたら良いのだが、できない時には「ここまで」と思うところまで食べる。
そして、ご飯に取りかかる。最初は家から持っていった梅干しを乗せたり、好きないかなごのくぎ煮と一緒に食べていたが、それでも食べられないことが多い。そこで先輩患者に指導されたのは、白いご飯の上にN園のお茶づけ海苔を振りかけて熱いお茶をそそぐという古典的な方法だったのである。もちろん、これで完ぺきに食べられるようになったのではないのだが、かなり満足できる結果が得られるようにはなった。
どんぶりを手に持って、お茶づけを流し込むように食べていると、ラストスパートという言葉が思い浮かぶ。何という味気ない話しだろう。
7月27日(木)
入院して3日目ごろだった。普段は挨拶しかしない6階東病棟の看護婦長さんが、我がベッドの横に立って「お願いがあります。神戸の看護学校から生徒が17人ほど、この病院に研修に来ます。その中のひとりをあなたの担当にさせていただいていいでしょうか。主として、お話し相手という感じになるのですが」と言われた。断る理由もないので「いいですよ」と返事をした。
7月18 日(火)の午前10時、看護婦長はひとりの学生を連れてきて「先日申しました学生です。今日から来週の木曜日までの8日間、話し相手をしてやってください。邪魔なときは遠慮なく本人に言ってください」と告げて、その場に学生をおいてナースステーションの方に帰ってゆく。
女子学生は淡いピンク色の看護服を着ていて、胸のところに学校名が書いてある。見るからに理知的で、バブミッシェルとしては、すぐに気分良く話し相手を努めることになった。
現役の看護婦さんの仕事を手伝ったりしながら、見習うのが研修なのかなと思っていたのだが、かなり様子が違っていた。脈や血圧を計ったりする以外は、看護の作業にはノータッチで、ひたすら一人の患者に対する話し相手とその身の回りのお世話をすることに徹していた。
バブミッシェルの場合、午前11時30分になると1階のリニアック室に行って放射線治療を行うのだが、その時も付いてきてラフィキくんや衣類の世話をしてくれる。まるで芸能人の付け人のような存在だ。親しい患者仲間から、やっかみのヤジが飛んできた。
「あんた、お殿様みたいだね。いつも家来を連れて歩いて。いいなぁ」
「セクハラには注意してくれよ。ここは名門の病院なんだ。世間話だけで我慢するんだよ」
彼女は福岡県出身だが、神戸が好きで来ている。看護婦になるためには5年間勉強するのだが、今、4年生。すでに准看護師の免許があるので、神戸の病院で週3日は公認のアルバイトをしている。でも、アルバイトができる時期と勉強が忙しくてできない時期があるため、私は苦労しているのですよ…と本人は言う。将来は福岡県に帰って看護婦になるかもしれないとも。
彼女の看護学校の最寄り駅は新長田駅と鷹取駅なのだが、バブミッシェルはその周辺のお好み焼き店とラーメン屋の情報を伝授したら、彼女はノートをつけながら聞いてくれた。福岡県の人らしくラーメンは豚骨系が好きだと言った。学校の先生になったような気分にさせらせた。
今日は彼女の研修の最後の日である。午後4時ごろ「お世話になりました」と言って、ピョコッとお辞儀をして、ニコニコと笑いながら帰っていった。あまり感傷的にならない方だが、彼女とは永遠に再会することはないのかなぁと考えると、寂しさが込みあげてきた。
7月29日(土)
このブログの左上に写真も掲げているが、カテンベくんが大変なことになっていることが病院にいても情報として伝わってきた。外出が許可されたので、早速、家でそのブログを開いてみた。
英国方式の最高の医療機関であるナイロビ病院での治療を受けているのだが、27日の記述で「窮地を脱出」とあるのでホッとした。でも、この病院は医療費に問題がある。ブログにも「デポジットが100万円」とか「一日のICU治療費が34万円」と書いてある。外国人のための病院なのだろうか。医療保険等々がないので、まともに支払う金額のはずである。
日本の医療にも問題は多いが、今、そこに身を置いている者として、まだしもと思う。
8月2日(水)
昨日、32日ぶりのCT撮影があったのだが、その結果をどのような形で伝えてくれるのかが明確でなかった。朝食を終えてテレビの前でゴロッとしていたら、消化器内科のG医師が1枚の紙を携えて病室に現れた。いつものようにニコニコしながら「昨日のCTの結果だけれど…」と突然切り出されてドキッとした。小学生が通信簿を受け取るときのトキメキを覚える。
「結論から言えば『変化なし』です。患部が大きくも小さくもなっていないし、転移も相変わらずありません」と言って、レポート用紙を渡された。返す言葉を考えたが、何も出てこない。
この1カ月間の出来事が走馬燈のようによぎった。特に、7月11日の入院時のことを思った。あの時、看護婦さんに「お腹や背中の痛みはどれくらい」と聞かれて「3」と応えた。今では、ずっと「1」と応えているのだが、実は「レイ・コンマ・いくつ」と言いたいほど和らいでいる。入院前にはズルズルと健康時よりも5〜6キロは体重が減っていたのだが、入院後は何とか維持しているし、増える兆しも見えてきた。自覚症状としては極めて良い方向に向かっていると実感していた。その確信に満ちたものが、ガーンと音を発っして壊されたような気がした。
こちらの落胆の表情を見て、G医師から「まだ治療が始まって10回少々。進行が止まったことで良しとすべきではないですか」と慰めにも聞こえるお言葉を。でも、でも、それにしても…
いただいたレポートの所見のところを抜粋して転記します。
・膵頭部の腫瘍は大きさ、正常ともに変化はありません。
・総胆管との間には浸潤は否定的であり、変化を認めません。
・明らかな転移巣は指摘されません。
なお、このリポートには、依頼医名のところにG医師の名前があるほか、読影医、指導医、画像診断管理医の名前も列記してある。
癌という病気が強敵であることを、
CTの結果が教えてくれた。
今日いちにち、当てどなく彷徨う戦士になった。
明日は、明日からは、気持ちを入れ替えて戦おう。
強敵であればあるほど、
戦うことの意味が大きくなる。
8月3日(木)
前夜、亀田興毅vsランダエタ、ライトフライ級王座決定戦があり、テレビで2時間30分にわたる放送があった。42.4%という驚異的な平均視聴率を取ったという。病院での患者たちもベッドの横に置かれたレンタルの小型テレビで観戦していた。番組が終了したのが午後10時である。でも、10時は消灯時間なのである。病室は容赦なく真っ暗になる時間である。
でも、患者たちは興奮して、すぐに寝つけない。打ち合わせがしてあったわけではないのだが、みんながトイレに集まった。廊下とトイレとナースステーションは深夜でも灯を消さない。
バブミッシェルもラフィキくんとともに、その輪の中にいた。
「ボクシングはときどきインチキな試合があるが、こんなに無茶苦茶な判定は初めてだ」
「亀田自身が『ベルトはいらない』と言うかと思ったら、泣いて喜んでいたね」
「判定が出た後、ランダエタ側を一切映さなかった。TBSもグルになっている」
ふと気が付くと、少し離れた位置に看護婦さんも立っていた。でも、彼女たちもこの夜の出来事は知っていて「早く寝てください」とは言わなかった。
今朝、目が覚めたら、まずテレビのスイッチを入れた。「朝ズバッ!」にチャネルを合わせる。亀田を持ち上げていたみのもんた氏がどんなコメントをするのかが興味あったのだが、夏休みで登場していない。売店の朝刊が飛ぶように売れた。2紙買った人もいた。回し読みをした。
朝食の時間、食堂で昨夜の「トイレ会議」の続きが始まった。
がん患者って、何でこんなにスポーツ観戦が好きなのだろうか。野球、サッカー、相撲など、何でもござれである。刹那的になっている証拠なのだろうか。
8月4日(金)
C病院に入院して以降の、この4週間ほどで言えば、このブログは毎週日曜日に更新している。最近、その手順についての質問も受けたりしたので、書いておきます。
病室にノートパソコンを持ち込んで書いています。ノートパソコンがやっと置ける程度の机もあるのだが、机上が狭いのでマウスを使うことはできない。Outlook Expressを開いて「新規」の所に文章を打ち込むのである。文章ができあがったら「下書きとして保存」にする。そのノートパソコンを外泊の時には持ち帰って、家のデスクトップで入稿作業をするのである。ブログ作業は、無論、Internet Explorer なのだが、O. Expressでの文章をコピーして I. Explorerにペーストできるのである。当たり前のことかもしれないが、この事を発見した時は「やった!」という気分だった。
そんなことで、入院後の金曜日は締め切りに追われる流行作家のごとく、文章づくりが忙しい。月曜から金曜にかけて計画的に作業を配分して…と思うのだが、そんなことはできない。
さてさて、問題は病院の中で入稿作業ができたら良いのだが、できないことが入院してすぐにわかった。「入院患者のためのアンケート調査」にその不満を書いたが、それだけでは充分でないと思ったので、投書箱に「インターネット室開設の要望書」を書いて投函したのである。
要望書に対して病院側の回答は得ていないが、ブログの入稿については触れていません。
内容はこのようなものです。
「私自身は違いますが、仮に50代、働き盛りの方がこの病院に入院したとします。社内の人からお得意様や協力会社まで50〜100人の方々に仕事上の迷惑をかけるとします。そんな方々に近況を報告して、おわびやお礼をしたい場合、どのような方法をとるべきでしょうか。
いちいち電話するのは相手に対して迷惑ですし、大変な労力が必要です。昔だったら郵便でしょうが、今は時代感覚としてヘンだと思います。相手から軽い反応をいただく意味でもE-mailではないでしょうか。ぜひ、患者が利用できるインターネット室を開設してください」
また、病室でノートパソコンを操作しているのを見て「PCカードで飛ばしてみては」とアドバイスしてくれた看護婦さんもいましたが、これも重めのブログ作業には適当でないような気がしました。何か良い方法をお知りの方はご一報ください。]]>
[108] バブミッシェルの闘病記(2)
http://yonezawa.exblog.jp/5326895/
2006-07-23T17:38:00+09:00
2007-01-25T17:09:56+09:00
2006-07-23T17:38:23+09:00
yonezawa02
闘病の日々
7月6日(木)
さて、問題の日を迎えた。C病院でいろいろな医師から治療計画を聞く日である。
まずは、初めての消化器外科に行き、H医師に診察を受ける。先週、撮影したCT写真を見ながら「私は外科医として手術が可能かどうかを判断する役割なのですが、この膵頭がんは静脈に浸潤があるので手術は不可能です」と言われる。白い紙にすい臓や静脈を描きながら、わかりやすく説明してくださる。でも、手術不可能という言葉には、一瞬、視界を失う。「G医師は対策をお考えようなので、消化器内科の方に行っていただけますか」との指示を受ける。
消化器内科のG医師は消化器外科での判断を聞いていて、「残念な診察結果ですが、治療方法を失ったわけではありません」と切り出して、放射線治療と抗がん剤治療の併用策について説明を受ける。まずは、放射線治療科で説明を聞いてほしいとのことなので、そちらに向かう。
これまた初めての放射線治療科に行き、I医師に会う。「7月13日より放射線治療を始めたいと思います。そのために、明日、腹部エコーと放射線治療のためのCT撮影をします」と。
この日、最後は消化器内科のG医師に再びお会いして「入院は7月11日です」と言われる。
7月7日(金)
放射線科に行き、可動式のレントゲンの前に寝かされる。技師の方がおへその上、10センチほどのところに青マジックインキで大きな+(プラス)マークを描く。「このあたりが患部なのかな」と思ったら、そうではなかった。+マークを基準にして、どの位置に患部があるかを何度もレントゲンを使って探ってゆくのだ。いかにも職人的な細かい作業が続くのだが、こちらはジッと動かないように横たわっているだけ。体の両脇にも+マークを描き、同じ作業をする。
最後は+マークの上に特殊な透明テープを貼りながら「13日に放射線治療が始まりますが、それまで、このマークを消さないように。お風呂は入ってもいいですが、この部分を擦らないように」と言われる。「汗でテープが剥がれないのですか」「それは、多分、大丈夫です」
7月8日(土)
突然、東京に行く。東京都品川区大井の気功の積明(じゃくみょう)さんにお会いするためである。(積明さんの気功治療については後ほど詳しく書きます。)
夜、品川駅近くのレストランに、息子の康の家族、娘の佳織と麻琴、それに我々と、8人が集合して、壮行会となる。久々に集まったためか、みんな、楽しそうだ。ワイワイ言いながら、酒もすすむ。バブミッシェルもビールを少し飲む。だけど、思ったよりも食が進まなかった。
7月10日(月)
ここまで書いてきて、このブログの[17]の「投稿者からのお知らせ」と似ているなと思いました。あの時、キリマンジャロに登るにあたって「人生最後の挑戦」という言葉を使いました。また同じ言葉を使うのも気が引けるのですが、やはり今回も挑戦ではないでしょうか。
明日から入院ですが、そこを戦場と位置づけて戦います。
行ってきます。そして、必ず勝って帰ります。
7月11日(火)
今日から入院するので、C病院のことを少し書いておきます。
1962年、財団法人がんセンターとして開設される。71年、兵庫県立となり、後に名称が「がんセンター」ではなくなるのだが、がん診療を中心とした病院であることは変わりく今日に至っている。ベッド数400床、診療科目17科、1日平均の外来患者数726人の大病院が最寄り駅からも遠く、ちょっと不便な場所に構えているのである。我が家はビビミッシェルが運転するクルマで行き来しているが、バスを乗り継いで来られる患者も多いのである。
今年、某週刊誌の「『がん総合』のいい病院」という特集が話題になった。難易度の高い手術や症例数に応じた傾斜配点をしたものを基数にして、専門医や技師の充実度、看護や設備、そして、ケアサービスの充実度を配点しての評価で、全国から22病院を推奨している。がんセンターもあれば、総合病院もある。地域的には東京が8、その他の関東圏が4、大阪が4、新潟、静岡、愛知、岐阜、兵庫、岡山の各県が1ずつ。兵庫県ではこのC病院が選ばれている。
前日「朝9時30分に入院受付にお越しください」という確認の電話をいただいていた。持って行く書類や日用品は「入院のご案内」というパンフレットに書いてある。行き届いた配慮が入院初体験のバブミッシェルには嬉しい。ビビミッシェルに付き添われて入院受付の前に到着して驚いたのは、この日の入院患者が約30人もいるし、付き添いの方を入れると100人足らずの人びとが集まっている。「みんながん患者なのだ」と思うが、患者と付き添いの方の区別はつきにくい。
入院手続きは職員の対応だったが、病室への案内はボランティアだった。こんな所にも活動の場を見つけている人がいるんだなと思う。C病院は3階から6階までが病室になっているのだが、バブミッシェルは最上階の6階となる。周囲が住宅街や大きな公園なので見晴らしはいい。
この日はレントゲン、心電図、採血、尿検査などを行う。
7月12日(水)
初めての病院のベッドでの就眠から覚めて、「ん、寝られるもんだな」と思う。6時起床。6時半ごろには看護婦さんが体温、脈拍、血圧をはかり、便の状態や体の調子を聞きに来る。
楽しかったのは「痛い所はありませんか」というので、「1カ月半前から、ずっとこのあたりが少し痛い」と言って、おへその周りをさすってみせる。「どのくらい痛いのですか」と言って、目盛りがない物差しのようなものを眼前に差し出す。よく見ると左端に「0」、右端に「10」と書いてある。「10って言うのは、どんな痛さなのですか」と尋ねると「我慢できないぐらいの痛さ」とのお応え。「じゃ、今日は3ぐらい」と言ったら「それならコレを移動させてください」と言われて初めて気づいたのだが、そろばんの玉のようなものが左右にスライドする仕掛けになっている。目盛りがないので適当に動かすと看護婦さんは納得した顔になり、持ってきたノートパソコンに3を入力する。この病院のしきたりを感じさせるアナログっぽさに感心する。バブミッシェルとしては久々の看護婦さんとの…というよりも若い娘さんとの対話が楽しめる。
午後、「カテーテル留置」という、ちょっとした手術を行う。カテーテルとは、抗がん剤の点滴を容易にするために、右肩の鎖骨下の静脈に向けて設置するパイプのこと。これから1ヶ月半の間、土曜と日曜以外は24時間、1日1リットルずつ点滴を続けるので、心臓に近い場所に穴を開けてパイプを埋め込むのだ。場所は首の下、右肩の内側、ワイシャツの右エリのあたりになる。
超音波室のJ技師がエコー検査機を持ち込んで穴を開ける位置を選定して、留置操作には消化器内科のG医師があたる。何度も部分麻酔の注射をしながらなので、思ったよりも痛くない。顔に近い場所なので状況が見えないようになっているのだが、G医師とJ技師の会話は聞こえる。「この人、筋肉が多いね」「この筋肉を避けるためには、この角度かな」などと。「そう、僕、テニスプレーヤーなんだよ」と言いたかったが、我慢する。30分ほどで終わる。
7月13日(木)
いよいよ今日から治療が始まる。放射線治療と抗がん剤治療の併用なのだが、いずれも30回施すことになっている。土曜、日曜、祝日は治療を休むので、1カ月半は要することになっている。
今日は抗がん剤治療について書いておきます。「化学療法」という言葉の方が正しいかもしれないが、抗がん剤を点滴する治療なので、ここではわかりやすく抗がん剤治療と言っておく。
抗がん剤は「5FU(ファイブエフユー)」。これを1リットル、24時間がかりで点滴するのである。食事の時や睡眠時も、休むことなく続けるのである。月曜日の朝始まって、土曜日の朝まで、毎朝、新しい溶液の袋と取り替えながら継続するのである。まさに「抗がん剤漬け」の日々である。注入する場所は昨日(7月12日)のカテーテル留置で書いた首の下で、注入のための痛みなどはない。
この5FUという溶液を点滴するための器具があるのだが、皆さんもご覧になったことがあるでしょう。背の高さがバブミッシェルの身長と同じくらいで、足下には5つの車輪が付き、胸の位置に押すためのハンドルがある。顔の位置に溶液を入れた袋がぶら下がっていて、そこから溶液はパイプで下に移動し、腰の位置に「輸液ポンプ」というハイテク機器が設置してある。ここで気泡の混入をチェックしたり、溶液を送る速度と量を管理するのだが、この機器を動作するために100ボルトの交流電源とつながないといけないのだ。
一応、バッテリーが内蔵されているのだが、電源を抜いて15〜20分もすると「ブー」という電力不足の警告ブザーが鳴る。例えば、トイレの場合、小は電源を抜いたままで用を足すことができるが、大の時はコードを持って行ってトイレ内のコンセントに差し込んでいないと安心して座っておれないのである。もちろん、食事の時も電源のある所に座るのである。
ということで、四六時中、こちらが寝ている時もそばに立って働いているパートナーができたのである。この点滴をするための器具なのだが、看護婦さんも「アレが…」とか「点滴するものを…」といった風に名称が定かでないので、こちらで勝手にネーミング募集をすることにした。病院での状況を伝えるために携帯mailに親族一同をグループリストにしてあるので、器具の写真を添えて「我がパートナーに素敵な名前をつけてください」と書いて送信したのである。
こちらの思惑としては、中学2年生の女の子から、点滴をするものだから「点ちゃん」とか「テンテン」と言った可愛い名前が来るかな…などと思っていたのだが、いずれにしろ、最初の提案者が考えたものを採用することに決めていた。ところが、意外な人から、すぐに返信が来た。我が家、みんなから「おっとりでユックリ」とからかわれる娘の佳織からの「ラフィキ(rafiki)」というネーミングである。スワヒリ語で「友だち」という意味である。[105]の冒頭の教科書の絵の中に「marafiki」という語が書いてあるが、これは複数形である。ま、それらしい名前だし、即、携帯mailで「ネーミング決定」の告知を入れた。あまりにも早く決定がくだされたことに驚くだろうと思い、そこには「皆の者、じっくり考えることも重要だけれど、何事につけ『初動』が大切なのだ」と憎まれることを承知の上で訓辞をたれたのである。
7月14日(金)
C病院での入院生活に入っての第一印象は、患者が和気あいあいとしていて、マナーが良いことである。6階の東病棟は個室が7室、4人部屋が10室あるので、50人足らずの患者が共同生活をしている。とは言っても、個室には重病人が多いらしく、食事も部屋で食べている人が多く、顔を合わす機会は少ない。でも、4人部屋の者同士はすぐに親しくなる。お互いに年輩者が多いので、なかなかお名前までは覚えられないのだが、「おい」とか「やあ」と言いながら挨拶もするし、情報交換もする。相手のお名前を覚えた頃には退院だったりして、始末が悪い。
バブミッシェルは4人部屋である。1人部屋は一日1万円のホテル並みの部屋代がいるが、4人部屋は無料なのだ。この倍数では表現できない格差は何を意味するものなのか、考えれば考えるほどわからなくなる。医師や看護婦さんのケアが4人部屋は悪くなるということは無いだろうし、4人部屋とはいえ大きなカーテンで仕切られていてプライバシーは十分に守られている。
今日、洗面所で歯磨きをしていたら、隣りに立っている同年輩の男性から話しかけられた。
「初めてお目にかかったように思いますが、あなた、お元気そうですね」
「今週の火曜日に入院して、今、治療が始まったばかりなので、元気に見えるのでしょうね」
「いやぁ、あなたはがん患者に見えない。それに、とてもおしゃれだ」
バブミッシェルとしては「お元気そう」も嬉しかったのだが、「おしゃれだ」には歓喜したのである。早速、携帯mailの親族グループリストに「今、先輩の患者さんから『おしゃれだ』と言われた。ママのお見立てによる甚平を着ていたのだが…」と書いたら、意外な波紋を呼んだ。
ビビミッシェル、つまりママから「あなた、がん以外の病気も患っているの? あの甚平は康の嫁、和江さんからの誕生日プレゼントよ」との連絡。これは大変な事態になったと「前メールで重要なミスがありましたので訂正します」と送信したのだが、すでに遅かった。「パパが着ているものは大体は貰い物なのだから、しっかりチェックしないとダメよ」という声が殺到した。
7月15日(土)
入院して5日目だが、治療は2日間しかしていない。食欲は少し減ったような気がするが、副作用などはない。しかも、今日から3連休。放射線治療はないし、抗がん剤治療は昨日の午前10時にセットした点滴液が、今日の午前10時には終了することになっている。つまり、48時間にわたって共同生活をしてきたラフィキくんと一時的ではあるが、別れて暮らすことになる。
一日に2回は病室に往診してくれる消化器内科のG医師に許可をもらって外泊をすることになる。同室の患者から「えっ、外泊できるの。いいなぁ」とうらやましがられる。皆さん、結構、元気そうな患者だが、外泊が許可されない人が多のだ。昼すぎ、ビビミッシェルが迎えに来る。クルマに乗って家路に着くと、4泊5日の小旅行から帰っている気分になる。でも、明後日にはがん病棟に舞い戻って戦いが始まることを思うと晴れがましさはなくなる。戦士のつかの間の休息日ということなのか。
7月17日(月・祝)
午後1時、C病院に戻ってくる。病室に入って寝間着に着替えている時に、広島県からバブミッシェルの実の兄が見舞いに訪れる。兄は6歳年上、73歳なのだが、仕事が忙しい人である。「俺は休日でないと行けない」ということなので、この日に来てもらった。義姉も同伴である。
兄とは二人だけの兄弟で、幼いときからすこぶる仲良しだった。両親が他界してからは、お互い、いい相談相手でもある。兄から受けた恩恵は多いのだが、ひとつだけ書いておく。
バブミッシェルが小学校に入学した時に名前のイニシャルがNYであることに着眼して、雑誌「ベースボール・マガジン」を見ながらニューヨーク・ヤンキースの野球帽を兄が作ってくれたのである。全体のシルエットや色あいからマークの刺繍に至るまで、中学一年男子生徒の作品とは思えないような「コピー商品」になっていた。国民は食べる物を買い集めることに躍起になっていた昭和21年のことである。ヤンキースの帽子なんて売っていなかった。得意になって学校にかぶって行っても、同級生は誰ひとり、大リーグの帽子であることに気づいてくれなかった。
兄とは、このような会話になった。
「うちの家系でがんになったのは、お前が初めてだ。がんは遺伝的なものではないんだなぁ」
「自分でもがんに最も縁遠い人だと思っていたよ。そのためか、がんに対して恐怖心がない」
「まあ、しばらくは静かにしているんだな。いい病院じゃないか」]]>
[107] バブミッシェルの闘病記(1)
http://yonezawa.exblog.jp/5233624/
2006-06-30T23:45:00+09:00
2007-01-25T17:07:50+09:00
2006-07-10T22:44:29+09:00
yonezawa02
闘病の日々
旅行記のようなものを記すために始めたものですが、
突然、闘病記となります。
バブミッシェルのバブ(babu)はスワヒリ語で「おじいさん」という意味です。
[104][105]に登場しました当時2歳半のミッシェルちゃんから
「バブー」と呼びつけられていましたので、ここでは第一人称をこの名前とします。
なお、もうひとりの投稿者をビビミッシェルとします。
ビビ(bibi)は「おばあさん」という意味です。
病院名と医師は匿名にさせていただきます。 ある発見までの道のり
5月21日(日)
東京の空は雲ひとつなく、抜けるように青かった。
昨日、上京し、川崎市に住む息子の康の家に一泊させてもらい、2日間にわたるアフリカン・フェスタ2006を、バブミッシェルはひとりで見てまわる。エネルギッシュな催しに圧倒される。
この日の3時すぎ、娘の佳織と会場内で落ちあい、珍しく親子デートとなる。神戸俊平さんとお会いしたら、次々と彼の知人を紹介してくださる。相変わらず、嫌味のない愉快な人である。
5時すぎ、日比谷公園会場で佳織と別れて東京駅に向かう。夜11時に帰宅するが、腰が少し痛い。
5月22日(月)
朝、浜松市の大橋弥生さんのブログを開くと、すでに昨日のアフリカン・フェスタの状況が入稿してある。「東京にパソコンを持って行ったの?」と書いたE-mailを彼女に送る。
同じようにフェスタを記録しようと思っていたので入稿作業にかかる。便秘ぎみの日々が続く。
5月23日(火)
昨日と今日、順調に進めて[106]を入稿する。我慢できなくはないが、おヘソの周りが痛い。
5月24日(水)
日比谷公園の後、仙台に行き、東京に舞い戻り、次々とイベントに参加された早川千晶さんが、夕刻、我が家に来ることになっていた。ところが、東京での講演が長引き、新神戸駅に到着したのは夜10時すぎであった。会って驚いたのは、本人は「街頭募金で張り切りすぎて」と言っていたが、声が出ない。でも、彼女はハスキーボイスでいつものようにしゃべり続ける。夕食は新幹線の中で終えたというので、我が家に到着すると、そそくさに寝ていただくことになる。
おへそのまわりの腹部が痛い。その反対側の背中も痛い。でも、明日の一日は何とか…と願う。
5月25日(木)
朝7時に起きたら、疲労困ぱいのはずの早川千晶さんがシャワーを浴びていた。「私はこんな生活は慣れていますので」と言ってケロリとしているし、昨夜出ていなかった声がちゃんと出ている。
8時半、岡山県倉敷市にクルマで出発する。運転はバブミッシェル、助手席にビビミッシェル、後部座席に早川さんと、この日の講演会を計画した高校教師の助友伸子さんが乗る。助友さんは10数年前、ケニアに長期滞在の研修旅行をされ、ナイロビの旅行社にお勤めの頃の早川さんと知りあったとのこと。2時間少々で走る予定が渋滞などがあって、3時間超かかって到着する。
会場では助友さんの教え子にあたる医師の西山敦子さんが準備して待っていた。地元メディアが協力してくれて広報活動もしたのだが、午後1〜3時という時刻のために出席者は少なかった。講演終了後、早川さんは新倉敷駅から関西空港に向かい、この日の夜、ケニアに帰国された。
我々はクルマで神戸に帰ったのだが、この日は腰も痛くなかったし、倉敷で4日ぶりの便も出た。
5月26日(金)
朝からシクシクお腹が痛いので、A病院に行く。
A病院は我が家から1.5キロほど離れた住宅街の中にある。50歳代の内科の開業医で、真面目な方である。10年前、娘の佳織が学生アルバイトとして働いていたことからお知り合いになり、「行き付けの医者」となっている。会社退職後、健康診断にいたるまで、ここでしている。
「先生、お久しぶり」「相変わらずお元気そうだね」「最近、お腹が痛いのと便の出が悪いのだが」といった会話で始まり診察となる。血圧、血液、尿を検査し、少し待っている内に結果が出て「どこも悪くなさそう」となる。帰りに検便のための容器を渡されるが、薬は出ない。
5月30日(火)
再度、A病院に行く。前回、検便の容器を受け取って帰ったのに、それ以降、一度も便が出ないし、出る気配もない。そのためではないかという自己診断だが、腹痛が増してきた。
A医師はこちらの顔を見るなり「また来たの?」という表情だったが、こちらの気配を感じて、即刻、国立の大病院での診察を薦められる。看護婦さんがB病院に電話を入れたら「外来の受付時間が終わりかけている。クルマですか、自転車ですか」と言った質問があり「僕は走って行きます」と答えてもらった。A病院の紹介状を手に持ってB病院にジョギングする。1キロほどの距離を走りながら、こんなに健康そうな病人って、世の中にそうもいないだろうと思う。
さて、大病院。友人の入院見舞いとか、会社員時代の健康診断ではお世話になったことがあるのだが、自らの診察で来たことはない。戸惑いはあるが、合理的なシステムが気持ちいい。
消化器内科のB医師は簡単な問診の後、放射線科に行き、腹部のレントゲンを撮るように指示する。レントゲン撮影の後、院内を数10メートル歩いて、再度、消化器内科で診察になるのだが、B医師の前のモニターには我が腹部のレントゲン写真がすでに映し出されているではないか。デジタル映像、光ファイバーという言葉が浮かぶのだが、突っ込んだ質問は差し控える。
「腸捻転の心配はなさそうですね」と言われ、二種類の便秘薬を受け取って帰る。
6月1日(木)
二日前に受け取った便秘薬のお陰で便通は良くなったものの、腹痛は治らなかった。予約は入れてなかったが、再度、B病院の消化器内科に行き、C医師に事情を言う。ウ〜ンと言ってC医師は天を仰ぎ「便秘薬を止めてみてはどうでしょう」とだけ。何とも不安感の残る診察が続く。
6月5日(月)
B病院は曜日ごとに医師が変わる。これまでとは違う医師に出会いたいということで、月曜の朝、消化器内科に向かう。外来受付の女性が「どこが悪いのですか」と尋ねるので「悪いところを探しにきた」と言いたかったのだが、グッと我慢して「先日来、病状が変わらないので」と。
D医師に「腰のあたり。前も後ろも痛いのですが」と言ったら、カルテを見ながら「お尻の方からカメラを入れて大腸の中を覗くのがあるんだけれど」とのお応え。D医師も便秘にこだわっているようだ。「カメラを入れるのは痛いんでしょう?」「それはそうなんだが…」
「じゃ、CTスキャンでもしてみませんか」と言われ、簡単そうなので同意した。こちらも何かやんなきゃダメだと思っていたのでOKしたのだが、この「でも」付きの腹部のCTスキャンが「ある発見」へのキッカケとなったのだから不思議だ。CT検査は10日後、15日となる。
6月10日(土)
転職のために1カ月近く休みが取れた娘の麻琴とビビミッシェルがバリ島に出発する。留守番役のバブミッシェルが三宮の空港バス乗り場までクルマで送る。「父さん、元気でね」「大丈夫!」
6月13日(火)
バブミッシェルは一時的に独身になったので、かねてから行きたかった吹田市の国立民族学博物館に行く。アフリカの展示コーナーに入ったら、真っ先に目に入ったのは[98]に写真も載せました「ベニン王国の少女像」(みんぱくでは「ベニン王母像頭部」という作品名)の複製であった。思ったよりも小さめのブロンズ像が大きなガラスケースの中に置かれていた。会場が暗く、真上からのライティングのために陰影が強すぎるのが気になったが、素晴らしい。
「ビデオテーク」では東アフリカ関係の6作品を観る。マサイ族の生活を描いたものが多いのと、神戸俊平さんが監修なさったものが大部分を占めていた。アフリカン・テイストに浸る。
帰りに三宮で映画「ナイロビの蜂」を観る。ズッシリとした重い映画だった。
この日は万博公園とその周辺を地図を見ながら気持ちよく散策した。そして、映画鑑賞は午後6時すぎからだったが、集中力を失わず観ることができた。終始、快調だった。
6月14日(水)
Macというパソコンを使用しているグラフィック・デザイナーのための「ステップ・アップ・セミナー」を大阪市福島区の会場に聞きに行く。メーカーが新機種を売るための宣伝なのかと思ったら、そうでもなかった。3時間30分、難しい話しが続く。300人ほどの若いデザイナーに囲まれての受講だったが、「みんな、頭いいんだな」と思う。この日も快調だった。
6月15日(木)
昼前、ビビミッシェルと娘の麻琴がバリ島から帰る。早速、デジカメのメディアをパソコンで開くと、観光地めぐりをするでもなく、民族音楽のケチャやガムランを聴くでもなく、土産物屋を探索するでもなく、ひたすらホテルのプールに寝そべっていた様子がうかがえる。「あちこち、行きたくなかったの。のんびり過ごすことが目的だったの」と麻琴が解説する。
バブミッシェルは昼食を抜いたまま、午後3時、B病院の放射線科に腹部のCTスキャンを撮りに行く。CTはComputed Tomography(コンピュータ断層撮影)の略。広い部屋に縦横ともに2メートルぐらいのCT装置が垂直に立っている。中央に直径70センチほどの穴があいている。その穴の周囲にX線の発生装置と検出器が組み込まれているらしい。ベッドに乗せられた我が身体が、その穴の中を行ったり来たりする。レントゲンの時と同じように照射技師の方から「息を吸って。止めて」という掛け声がかかる。思ったよりは簡単だった。10分ほどで終わる。
6月16日(金)
この日は朝いちばん、B病院の消化器内科に行く。CTスキャンの結果を聞くために。
この病院では4人目の担当医であるE医師と一緒にパソコン・モニターに映し出されるCT写真を見る。スリットされた写真を早いテンポで入れ替えてゆくと、まるで3D映像のような世界だ。
映像を動かしている内に、E医師の手が止まる。「すい臓がヘンですね。アタマのところが膨らんでいる」と言って、バブミッシェルにもわかるように、その部分を拡大して見せてくれる。
「もう一度、造影剤を使ってCTをしましょう。撮るのは27日。その上で今後の方針を決めましょう」と言われ、新しい局面をむかえたのはわかるが、けむに巻かれた状態で帰宅する。
6月24日(土)
我が家から歩いて行けるテニスコートで、いつもの仲間と3時間ほど楽しむ。汗を流しながら一生懸命に走りまわる。持久力等々、いつもと変わらず、気持ち良いひとときとなった。
6月27日(火)
この日が来るのが、何と長く感じたことだろう。前回、けむに巻かれた状態だったので、モンモンとした日々を過ごしていた。やっとのことで造影剤を使ってのCTの日が来たのだ。
腕に注射器で造影剤を注入する以外は前回(6月15日)と同じ方法に思えたのだが、E医師の指示でクエッションマークが付いているすい臓にCTの焦点を当てての撮影になったのだろう。
6月28日(水)
この日はある計画があったので、バブミッシェルとビビミッシェルの二人でB病院の消化器内科に行く。初対面のF医師が昨日撮ったCT写真を見ながら「すい臓の頭部に腫瘍のようなものが確認できます。治療をするためには更に検査をしなければならないので、早急に入院をしてください」と言われる。「ウ〜ン、やっぱり…」と思うが、言葉にならない。
そこで、おもむろに「こちら、B病院には約1カ月にわたってお世話になってきたのですが、実は、この種の病気の場合、C病院で治療をしていただきたという気持ちがあります」と言ったら、拍子抜けするぐらいに簡単にF医師は「わかりました。これまでの診察結果やフィルム類をまとめて、明日の朝にはお渡しします。紹介状も付けて」と言われたのである。
6月29日(木)
朝、B病院に書類をいただきに行く。フィルムは縦横ともに1メートルもある大きなものである。そのまま、バブミッシェルが運転するクルマにビビミッシェルも乗ってC病院に向かう。
さて、C病院なのですが、A病院とB病院は我が家から自転車で行ける距離なのだが、C病院は20キロほど離れている県立の大病院である。入院している方のほとんど全員が癌患者なのだ。
B病院と同様に、外来の消化器内科に行く。1時間以上の待ち時間のあと、G医師に呼ばれる。しばらく無言でフィルムを見ていた医師は「すい臓の頭部にがんが確認できます。3.5センチほどのものです。今週と来週、もう一度、CT撮影をします」と言った。ついに宣告された。
6月30日(金)
C病院の放射線科で腹部のCT撮影をする日なのだ。指定された時間になっても、すぐには呼ばれなかった。CT室に入ってわかった。B病院と同じように腕に造影剤の注射をするのだが、看護婦任せではなく、消化器内科のG医師自らが注射をする。後から親しくなった看護婦さんに聞いた話だが、G医師は胃カメラを扱うのも名人クラスとのこと。長身で童顔、ナイロビのタクシー運転手のキムくんを連想した。自分でやんなきゃ納得できないタイプのようだ。G医師自身もモニターを見ながらのCT撮影となる。CT装置用のベッドに仰向けに固定されたバブミッシェルは、天の方向を仰ぎながら「いい医者に巡り会えたのかな」と思った。
7月1日(土)
このあたりまで来て「やっと闘病記らしくなったな」と感じておられる方には申し訳ないのですが、再び、アフリカ路線に少しだけ戻ります。
実は、バブミッシェルとビビミッシェルは「これはかなりの難病」と予感した時点で、ケニアにおられる早川千晶さんにご相談のE-mailを入れていたのです。相談の内容はブログ「カテンベ救済の呼びかけ」に登場する万寿(まんじゅ)さんという女性のヒーラーの方にお世話になりたいということだったのです。ところが早川さんは大変お忙しいのと、ナイロビの電気が不安定なのとで連絡が取れない時期が続きました。万寿さんとの連絡方法がわからなかったのです。松山市在住であることはわかっていたので、ネット検索もしたのですがダメでした。
ところが、この日、ひょっこりと「ごめんなさい。返信が遅れて…」という早川さんからのE-mailが届いたのです。早速、E-mailで治療をお願いしたら、万寿さんから「インドと中国に行く直前なので…」とお断りの返信が帰ってきました。これでひるんではダメと、今度は電話でお願いしたら「明日の午後5時にどうぞ」となったわけです。念願が叶ったのです。
7月2日(日)
この日はいい天気、ドライブ日和だ。万寿さんにお会いするために、クルマで松山市まで走って行く日である。コースは神戸から尾道までは山陽自動車道で、尾道からしまなみ海道に入り今治に至る。後は海沿いの国道を松山まで走行する。やはり、しまなみ海道の変化に富んだ景観には感服した。でも、この海道はレンタルの自転車を借りて島めぐりをすることをお薦めする。それぞれの島の村道を走るので情感が違うのだ。歴史を感じさせる島々である。我々はそんなことを言ってはおれないので、高速道路のしまなみ海道を走って四国に渡った。
万寿さんのお宅は松山市の東の端、海水浴場に隣接していた。お家に入っても潮騒が聞こえる。早川さんのことを「千晶ちゃん」と呼んでいた彼女も、早川さんと同世代の方とお見受けした。ヒーラーとか、ヒーリングという言葉は、ブログ「カテンベ救済の呼びかけ」を読むまで知らなかったのだから、上手な説明はできない。とにかく、集められた光を手のひらから発して、それを患部に当てると効果があるというもの。万寿さんはこの分野で国際的に活躍しておられる。
まずは、万寿さんとお弟子の若い女性の二人から、バブミッシェルが1時間ほどにわたって質問を受けることから始まった。「がんになったのは原因があるのだから、これまでの生活スタイルを180度変えないといけない」というのが彼女の主張である。そんなことって、できるのだろうか。それと、万寿さんは若くして経営者の道を歩んでいたのだが、がんを患い、医学とは無縁のまま、ヒーリングで完治させたとのこと。それ以来、人生180度転換して、ヒーラーとして歩むようになったら、がんが寄り付かなくなったらしい。
治療は患部を中心にしたものであるが、頭の周囲から足の裏まで全身に及ぶもので、1時間半を要した。手から発する光は見えなかったが、体全体がホカホカと暖かくなり、温泉に浸かっているような気持ちになった。20代のお弟子さんからも存分にパワーをいただいた。
治療が終えた後もビビミッシェルを交えての癌の話、アフリカの話が夜遅くまで続いた。この日は万寿さんに近くの宿を紹介してもらい、そこに泊まる。ドライブと治療で疲労感たっぷり。
7月4日(火)
C病院の放射線科で胸部のCT撮影をする。どこかに転移していないかを調べるためなので、眼鏡まではずしての広範囲の撮影となる。後から判明したことだが、幸いにも転移は皆無だった。]]>
[106] この盛りあがりは何だ! アフリカン・フェスタ2006
http://yonezawa.exblog.jp/4776479/
2006-05-23T22:50:00+09:00
2006-07-06T09:50:08+09:00
2006-05-23T22:50:48+09:00
yonezawa02
臨時ニュース
高層ビルに囲まれた緑樹が、久々に照りつける太陽で生き返った。
いつも偉容さを漂わせる大噴水が、今日はなりを潜めている。
バリケードのごとく、透き間なくテントが張り巡らされた。
5月20日(土)と21日(日)の2日間、東京・日比谷公園を点描します。 33カ国もの駐日アフリカ大使館がそれぞれに趣向を懲らしたコーナーを設けた。
40ものブースで個性的なNGOたちが、大きな声で表情豊かに自己PRをした。 そこに集まった人びとは、2日間で延べ7万人。なぜ、これほどまでに盛りあがるのだろうか。
今、アフリカは‘旬’なのか。 AFRICAN FESTA…6回目を迎えた催しだが、投稿者は初体験。何もかも新鮮だ。 ギニア出身の歌手ニャマ・カンテが激しく踊る。その仲間が舞台に上がるやいなや踊り狂う。 アフリカン・コンサートは屋根がない所で聴くべきだ。音楽堂は通路までギッシリだった。 カメルーン音楽と新内三味線のユニークな融合。BANABAという国際交流型のバンドである。 舞台を離れても、音楽と離れることはできない。あちこちで、それぞれの民族音楽が流れる。 そして「ねぇ、いっしょに太鼓を叩こうよ」と誘いをかけられる。 聴いている人や見ている人がいてもいなくてもいいのだ。 大勢で踊れば、ググッと盛りあがってくるものがある。 ケニアの木管楽器ゾマーニを吹いているのは、一見、ベテラン・ミュージシャンのようだが…
よく見たら、神戸俊平さんではないか。NGOコーナー「アフリカと神戸俊平友の会」には「ボクとキキのアフリカサファリ」など、数種の著書が売られていた。彼の動物記は読み応えがある。 さて「胃袋でアフリカを感じたい派」を自認する者であるが、今回は苦戦をした。ここでしか食べられないスナック食品、肉料理、ビールなどが売られているのだが、どれも長い行列だった。 結局、スーダンのシシケバブという巨大な焼き鳥(1串=500円)を食べ、
南アフリカ共和国の赤ワイン(コップ1杯=500円)を飲んだだけだった。 でも、みんな、よく食べるんだ。食べすぎだよ、ねぇ、マータイさん。 モカ・コーヒーの産地のエチオピアは、このようなセレモニーをしていた。 物品販売ももちろん大盛況。子どもにも人気のようだ。 旅先で工芸品を見つけても持ち帰ることの難しさを思うのだが、ここでは気軽に買える。 「アマニ・ヤ・アフリカ」のコーナーでは、カテンベくん関連の物品が売られていた。 子どもたちがアフリカのお面を作るワークショップもあった。 この写真と次の写真が今回の催しの盛りあがりをもっとも象徴しているのではないだろうか。
テントの中をのぞき込んでいる人びとがいました。こんな姿勢で立ったままの45分間。 早川千晶さんの「ケニア・キベラスラムの子どもたち」という講座である。
テント内に入れなかった人たちが地面に座り込んで聞き入っていた。 早川千晶さんには、もうひとつステージがありました。
テレビ番組「あいのり」で人気者になったヒデ(今澤徹男)とのトークショーである。 ヒデのアフリカでの滞在は約2年間ほど。早川さんのアドバイスを受けて、ナイロビ郊外のスワヒリ語学校で半年間勉強し、念願のマサイ族との交流を体験することもできた後、帰国している。
アフリカに貢献し、何らかの力になるために…と、今、いろいろな活動を続けている。 ヒデがブースに立ったら、若い女性が取り囲んだ。新しいタイプのタレントなのだろう。
【LOG in BLOG】06.5.25
本日(木)午後1時〜3時、倉敷市の中央病院古久賀ホールで、早川千晶さんのスライド&トーク
≪ケニアのスラムで生き抜く子供たち 〜世界の子供たちの未来を考える〜≫がありました。 今回は助友伸子さんと西山敦子さんが企画し、PR活動もしたのだが、ウイークデーの昼過ぎの時刻のために出席者が10数名と少なく、上掲のアフリカンフェスタと逆現象になりました。でも、香川県、広島県、兵庫県などからの熱心な参加者があり、ホットな雰囲気になりました。
早川千晶さんは9月下旬から10月にかけて全国ツアーを予定していますが、その時はカテンベ腎臓移植基金の発起人である大西匡哉くんも一年ぶりに同行します。そして、匡哉くんの師匠にあたるマテラさんも初来日して、本場のパーカッションを聴かせてくれることになっています。
【LOG in BLOG】06.6.10 3枚の絵葉書はカテンベくんが描いた絵を仙台の山田さんがデザインしたものです。3枚300円。
マサイ族がビーズで作ったワニのキーホルダーは早川さんが持ってきたものです。1個200円。
いずれもアフリカン・フェスタや倉敷の会場で売っていたものですが、多少残ったものを我が家に保管していましたら「友人に売りたいと思いますので」と言って、2万5千円買ってくださった方がいます。倉敷の会場で初めてお会いした宝塚市の井上明美さんです。いい話しでしょう。
他に、日本でのプレスになったキベラの子ども達の歌のCD「TWENDE NYUMBANI」(2500円)が40数枚残っています。[105]で購入しにくい本ということで紹介した早川千晶・著「アフリカ日和」(旅行人・1680円)が20数冊が我が家にあります。いずれも税込料金、送料別途です。
ご希望の方は申し出てください。売上げ金の一部はカテンベ腎臓移植基金になります。
お問い合わせとお申し込みは…yonezawa@ops.dti.ne.jp
【LOG in BLOG】06.6.13 5月13日に封切ったイギリス映画「ナイロビの蜂」を遅まきながら観ました。
ケニアを舞台にした映画と言えば、1986年のアメリカ映画「愛と哀しみの果て」があり、2001年のドイツ映画「名もなきアフリカの地で」があり、いずれも歴史に残る秀作ではあるのだが、一時代前のアフリカを描いたものである。ついに「今」を活写した社会派が登場しました。
ラブ・ストーリーという包装紙の中でアフリカの現実をしっかり捉えています。レイチェル・ワイズの助演女優賞は主演の間違いではないかと思うほど、生き生きとした女性を浮かびあがらせています。原作ではキベラと謳ってあるのだが、映画では単なるスラムの情景として扱われているシーンがある。そこでは、あの「トタン屋根」と「鉄道」をアクセントにしている。
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[105] ミッシェルちゃんへのメッセージ(2)
http://yonezawa.exblog.jp/4474570/
2006-04-24T22:01:00+09:00
2006-05-28T11:35:51+09:00
2006-04-24T22:01:37+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
タンザニアやケニアでは、ひとりの人がスワヒリ語、英語、自らの部族語の
3カ国語を使い分ける場合が多い。
しかも、4番目の言葉としてシェング(sheng)というスワヒリ語と英語の
合成したものが若者のあいだで流行しているらしい。
何という優秀な民族なのだ…と日本語しか話せない投稿者は拍手をする。
シェングでは友だちの複数形はmameniとなる。ma-は接頭辞で、英語のmenが語源。
語尾の-iは英語がスワヒリ語化するときに付くことが多いらしい。
似た言葉に、日本人=mjapaniというのがあるが、これはスワヒリ語。 やぁ、ミッシェルちゃん。いつも、少しだけ、あなたは寂しそうにしていたね。
近所のお友だちとも、ちょっと距離感をおいていたのが、気になっていたのだ。 ミッシェルちゃんは日本流に言えば、箱入り娘。外に出るときは、ママザマラーディさん、エリザさん、エリーザさん…使用人3人の内、ひとりはついて出ないといけない習慣になっていた。 使用人たちはそれぞれに忙しい。ミッシェルちゃんもそれがわかっているから無理は言わない。 庭で兄のカルビンくん達が遊んでいる時も部屋の中からそれをジッと見ている。そんな光景が多かったのだ。そこに救いの神が現れた。バブとビビ。つまり、私たち。恰好の保護者なのだ。 そんな事で、私たちと一緒に遊びに出ることが多かったが、外に出ると特別扱いされていた。 隣りの家の庭に行くと、そこの家の使用人から「ミッシェルちゃん、なかに入って遊ばない?」と言って手を差し出されるのだが、ミッシェルちゃんは頑なに室内には入ろうとしなかった。
他の子供たちはそんなことを言われようものなら、脇目もふらずに部屋の中に飛び込むのだ。 ミッシェルちゃんはみんなから愛されていた。だから、友だちづくりに性急に
なっていなかった。それでいいのかな。そんな風にバブとビビには見えたんだ。 さて、冒頭のシェングだけれど、なぜ友だちの複数形の語源がmenなのだろう。「友だち」と「人」が同意語という感覚は我々にはない。このことを理解するのに都合のいい言葉がある。
ハランベー(harambee)。もともとはヒンズー教の言葉で「神様、いらっしゃい」という意味。 アフリカには古くから相互扶助の伝統があり、その精神は現代社会においても消えることなく残っている。近親縁者や仲間同士はもちろん、何の縁もゆかりもない人でも、様々な場面での助け合いが行われている。ハランベーはお金が必要になったときに、周囲の人々がお金を出し合って助けるというもので、大きなものから小さなものまで日常生活の中で頻繁に行われている。
葬式を出すときや結婚をするとき、病気になり医療費が必要なとき、学校を建てるとき、子どもの学費が足りないときなど、ひとりの力では不可能なことも、大勢の人が力を合わせれば実現できることがある。だが、見ず知らずの人のためのハランベーが回ってくることもあるのだ。
「アフリカ日和」 早川千晶・著 旅行人 この赤の他人がお金を出し合う行為に対して、早川千晶は「多民族の入り乱れる国を
ひとつにまとめて引っ張っていくには、ハランベーが必要」という支配者の理念にも
触れていますが、根本的には日本では死語になっている「袖すり合うも他生の縁」と
いう精神がアフリカには残っていることではないだろうか。 (写真のキャプションが読みにくい場合は写真の上でクリックしてください。拡大されます。)
【LOG in BLOG】06.5.5
5月5日に浜松市で「ハランベー☆パーティー」が開かれました。
投稿者は現地に行くことができなかったのですが、いかにも楽しそうだったのでお願いしたら、大橋弥生さんがE-mailに写真を2点添付して送ってくださいました。入稿させていただきます。 音楽仲間が次々と前に出て、即興演奏をする。音まで伝わってきそうな雰囲気です。このパーティースタイルはお手本にしたいものですが、我々凡人には真似できないものでしょうね。 「こどもの日だから、私たちが主役よ。カテンベくん基金のための募金箱づくりは任せてね。」
このパーティーに我がブログのキベラの子ども達の写真をプリントして展示してくださったのには恐縮しています。詳しくは「ちびっこにっき ちびっこのおかしな日々」をご覧ください。
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[104] ミッシェルちゃんへのメッセージ(1)
http://yonezawa.exblog.jp/4329445/
2006-04-02T23:53:00+09:00
2006-05-29T09:15:14+09:00
2006-04-02T23:53:23+09:00
yonezawa02
タンザニアの暮らし
小学校は7年間在籍するもほとんど登校せずに形式卒業する。
中学校に入学するが、やはり登校しないまま中退する。
1980年、「登校拒否」という言葉がなかった時代の登校拒否児、15歳の高野少年は、
単身、タンザニアのムソマのスワヒリ語学校に入学し、初めて学ぶことの意味を発見する。
学校生活にも慣れて、スワヒリ語で周囲の人と話せるようになりかけた時に… 突然、後ろから腕をつかまれた。びっくりして振り向くと片腕をなくした、
ちょうど僕と同じような年ごろの少女がそこに立っていた。
金をくれ、恵んでくれと、まるで歌でも口ずさむかのように静かに言いつづけた。
何も食べていないらしく痩せ細り、身に着けているものもズタズタだ。
僕は思わず、ポケットに手をつっこんだ。
「僕の学校はアフリカにあった」 高野生・著 朝日新聞社 ミッシェルちゃん、元気かい。きっと元気いっぱいだよね。 あなたは、いつも輝いていた。まるで王女さまのように。 この時は2歳半だったが、今は4歳。きっと大きくなり、気高くなったことでしょうね。 あなたは理知的な顔をしているが、言葉数は少なかった。王女さまは多弁ではなかったのだ。 「バブ(babu・おじいさん)」「ビビ(bibi・おばあさん)」の2語しかしゃべらなかったのだ。 でも、その2語だけのイントネーションで充分にコミュニケーションができたから不思議だ。 「バブ」と「ビビ」の2語だけで、「朝だよ。ドアを開けて。いっしょに遊ぼうよ」とか、 「庭に出るから付いてきてね。でないと、叱られるから」と言っていることがわかるんだ。 今、バブもビビも日本に住んでいるのだが、ちょっと耳を澄ませば、
ミッシェルちゃんが「バブ」「ビビ」と叫んでいる声が聞こえてくるんだ。 そこで、ミッシェルちゃん。あなたにわかってほしいことが、ひとつあるんだ。
あなたの境遇って、タンザニアという国の中で、結構、特殊なのだということ。 このブログを見ている方は、ミッシェルちゃんがタンザニアにおける幼い子どもの標準モデルと思っているかもしれない。でも、そうじゃないんだ。王女さまなんだ。残念ながら… この国には貧しい人びとが大多数を占めている。バブやビビはそんな方々と接する機会が少なかった。そして、接するチャンスがあっても、彼らにカメラを向ける勇気がなかった。 一見、ハッピーな感じに見えるんだけど、本当は貧しい人びと。
そんな方々が大勢いたんだけれど、どう接したらいいのか、わからなかった。 だが、その時だった。
「待つんだ。おまえは何をしようとしているのだ」と、もうひとりの僕が叫んだ。
少女に贈るものはいったい何なのかを、自らの生き方も含めて探しださねばならない。
そうする以外に、少女と同じ境遇にある人達を救えない。死を生かすことはできない。
手をふりきって立ち去りながら、他の人のほうに歩きだす少女の背に向かって叫んだ。
「許してくれ。力無いこの俺を!」
「僕の学校はアフリカにあった」 高野生・著 朝日新聞社
【LOG in BLOG】06.3.19
壮絶なブログを発見しましたので紹介させてください。
と言っても、我がブログでは何度かご登場いただいた方のブログではあるし、
今年2月23日にスタートしているので、すでにご存じの方も多いのかもしれませんが… 昨日の土曜日の午後、雨が降るので近所でのテニスは中止になるし、仕方なくパソコンの前にすわってネットをしていました。前回[102]のLOG(日記)で書きましたように、ナイロビのキベラの11人の子供たちがケニア東部のミリティーニ村に移住したわけですが、その後、村の子供らと仲良く学校に行ったり、遊んだりしているのだろうかとツラツラと思いめぐらせていました。 と、何と、パーカッション演奏家であり、CD「センゲーニャ」 などでケニア東部の音楽を紹介しているミュージシャンの大西匡哉くんじゃないか。2年前からミリティーニ村に住み込んで、この村の演奏家との交流をはかりながら勉強している彼が、ブログを開いているではありませんか。 内容についてはブログをご覧いただきたいので、ここでは簡単に述べます。
ミリティーニ村に住む14歳の少年カテンベくんが腎臓を患い、現在、ナイロビの病院で透析などを受けているわけですが、病状は思わしくありません。そして、多額の治療費がいることがわかり、匡哉くんは「カテンベ腎臓移植基金」を立ち上げました。そして、これに賛同して、横浜の方々が、そして、福岡県の豊津町の方々が活動しているのです。ぜひぜひ、ご覧ください。
「カテンベ救済の呼びかけ」http://keepmusic.exblog.jp
「ウペポ〜アフリカの風ネットワーク」http://homepage2.nifty.com/upepo このブログを見て、即日(3/18)、激励するために匡哉くんにE-mailを出しました。
すると、匡哉くんはカテンベくんに付きっきりで手が離せないということで、
本日(3/19)、早川千晶さんが代筆したE-mailをいただきました。
伝統音楽を学ぶためにやってきた太鼓叩きの匡哉がめざましく変化を遂げています。
私はいろいろな事を考え込んでしまい、呼びかけ文を書けるまでに1カ月かかりましたが、
匡哉は素直な気持ちの持ち主で、すぐに行動に移しました。
カテンベが生きていくことができますように、いつの日か、笑顔で学校に通えるように、
心からお願いします。カテンベを励ましてあげてください。
なお、ミリティーニ村に引っ越したキベラの子供たちは、
その後、本当に元気に、幸せに、楽しそうにしています。詳しくは後ほど。 ところで我がブログ、見ている人は見てくれているのですが、親友でも見ない人は頑なに見ないのです。そんな方々にもカテンベくんのことは知ってほしいということでチラシを作りました。
ナイロビの二人に確認のメールしましたら、3月27日、大西匡哉くんから返信が届きました。
チラシ拝見しました。ありがとうございます。
カテンべの病状はほぼ安定していますが、このまま生き続けるには、
とりあえず透析が不可欠であります。
しかし、現在の募金状況では2〜3ヶ月の透析で底をついてしまうので、
その場合、どうしようかと思っているところです。
]]>
[103] あるキリマンジャロ登山隊からの報告
http://yonezawa.exblog.jp/4252726/
2006-03-12T18:00:00+09:00
2006-08-30T16:10:57+09:00
2006-03-12T18:00:36+09:00
yonezawa02
臨時ニュース
来年春、私たち、山仲間数人でキリマンジャロに登りたいと思っています。
タンザニア大使館でJATA toursを教えていただき、ホームページを拝見しました。
大変に面白いですね。特に『サファリの記録』でリンクされている
米沢夫妻の「キリマンジャロの白い頂き」は大変参考になりました。
そして「山仲間数人」が結果として8人となり、2月から3月にかけて計画が遂行されました。
投稿者からお願いして、この貴重な山行記録を掲出させていただくことになりました。 写真でもおわかりの通り、猛吹雪の中、九大山岳会(OBの会)のキリマンジャロ登山隊の4人が頂上のウフル・ピーク(5895m)に到達することができました。今年3月2日の朝のことです。
九大山岳部(現役)の創立50周年記念タオルを拡げての喜びの表情をご覧ください。
風で吹き飛ばされて積雪は少なく、ラッセルはなかったのですが、視界が悪いためにご来光はおろか、氷河も火口もまったく見えなかったとのことです。まさに厳冬期登山の様相です。 これは素晴らしいことだと思うのですが、ギルマンズ・ポイント(5681m)に8人の隊員中、残りの4人も到達していることです。[71]で書きましたように、古くからギルマンズ・ポイントを頂上と見なすという考え方があります。そうだとすると、全員が登頂したことになるわけです。
でも、この快挙は隊員の皆様方の、準備の段階からの努力の結晶であることがうかがえます。 この隊の高山病対策は啓示にあふれたもので、大いに勉強になります。( )内は投稿者の声です。
1. 隊員各自が東京や福岡の山専門旅行社に行って、数回、低酸素室トレーニングを
行いました。(知りませんでした。今後、登る時は低酸素室を探して訓練します)
2. 前半のアプローチでは通常の2倍以上の時間をかけてユックリと登りました。
(これも知りませんでした。少しずつ標高をあげるわけですから… なるほど!)
3. 入山してからは1日4リットルの水分を摂取しました。水筒の水には電解質粉末を
入れて飲みやすくし、スープやお茶も積極的に。(4リットルは大変だが根性で…)
4. ダイアモックスという薬を飲みました。(これは同感。トイレが近くなりますが)
それにしても、この写真、雪が多いのに驚きました。「5000m以上はずっと吹雪でした」とのことですが、うなずけます。手前、右寄りにセネシオの幼木があります。この感じ、いいですね。 この隊の企画から実行までマネージされた金氏顯(かねうじあきら)さんとは何度もE-mailをやりとりして教わることも多かったのですが、今回の登山をこのように総括しておられます。
昨年、九大山岳会はカラコルムのバルトロ氷河を遡り、K2を眺めて来ました。それなりに貴重な体験でしたが、「頂きに登った」という達成感がなかったのです。それを踏まえて今回は自分たちで計画して実行に移しましたが、かなり安くて、楽しい旅ができたことを喜んでいます。
それと、キリマンジャロはアフリカ最高峰、かつ火山の世界最高峰だからでしょうか、国際色豊かです。北欧各国、ドイツ、イギリス、アイルランド、フランス、イタリア、イラン、オーストラリア、韓国など、多くの外国人と会うことができました。
また、ガイドたちが優秀で、礼儀正しく、ユーモアも身につけていて感銘を受けました。 キリマンジャロから下山して、すぐにンゴロンゴロ自然保護区に入りました。
ハイエナがヌーの子供を追いかけていると親ヌーが出てきて、逆にハイエナを蹴散らすシーンなど見ることができました。自然のままの動物たちのすべてが珍しく、感嘆符!の連続でした。
その他、縄文時代のような生活をするマサイ族の集落、悲惨な奴隷貿易の歴史をしのばせるザンジバル島、また、美しい白砂青海など、タンザニアの魅力を満喫することができました。
なお、この8人のグループ、平均年齢は60歳、最高齢の方は67歳とのことです。
詳しくは…九大山岳会ニュース「キリマンジャロ登山とタンザニアの旅」
【LOG in BLOG】06.4.6
上掲のキリマンジャロ登山隊と同様に、このブログで知りあった方からの情報提供です。
[97]でも述べましたように、タンザニアでは首都ダルエスサラームはもちろん、地方都市に行っても、しばしば、ティンガティンガの画家や作品に出会います。確立された画法を忠実に受け継ぐ、圧倒される数の芸術家集団。その背後にはヨーロッパでの高い評価があるでしょう。
では、日本で彼らへの理解はどうなのでしょうか。[97]の稿を書くにあたり調べたのですが、あの稿で記しました講談社が10数年前に発行した2冊の本以外の文献はないようでした。アフリカを代表するモダンアートなのに「知る人ぞ知る」という世界であるような気がする。 そんな「ティンガティンガ未開地」に三年連続で来日し、普及に努めている若い画家がいます。マイケル・レヘムさん、33歳。ティンガティンガ画法の創始者エドワード・S・ティンガティンガの甥にあたり、各地でのコンペティションで優勝し、注目を浴びている画家である。 2004年、タンザニア大使館主催の個展を東京、横浜、千葉、山形にて、2カ月間にわたり開催。
2005年、愛・地球博のアフリカ共同館での毎日のデモンストレーションがお客さまに好評で、メディアで取りあげられた。「彼なら知ってるよ」と言われる方も多いことでしょう。 今、マイケル・レヘムさんの絵画はすべて売り尽くされ、タンザニアでも手に入らないのです。
今回の個展での展示絵画は4月中旬に来日してから描くというハードな日程になっています。 さて、今年、名古屋で始まって姫路で終わるという遠大な計画を立案して運営しているのは、タンザニア大使館ではなく、博覧会スタッフでもなく、姫路市在住の若い女性なのである。
このブログへのコメントを寄せてくださって、投稿者は彼女と知りあったのですが、何度もE-mailをやりとりしている内に情が移り、お力になってあげられたらと思っている次第です。
彼女は昨年の愛・地球博でマイケル・レヘムさんと知り合い、お付き合いが始まり、彼の婚約者でもあるのです。でも、イベント関係は未経験であるし、多分、これからも失敗をしたり、恥をかくことも多いのではと思いますが、全国の皆様、彼女を応援し、協力してやってください。
小宮淳子 E-mail : tenatena@w2.dion.ne.jp 淳子さん、頑張れ! イベントには「手づくりの味」が生きるのだから… さて、マイケル・レヘムさんは作品をほとんど持たずに来日し、個展用の絵を寸暇を惜しんで描いていると聞いていたのに、4月21日、神戸でのサカキマンゴー・ライブに姿をあらした。左が淳子さん。右はこの日、マンゴーくんと共演したミュージシャン「ダダムビラ」の二人である。
女性3人の話題は音楽や絵画ではなく、タンザニア料理の調理法に関する情報交換であった。 最初の個展、名古屋の市民ギャラリー矢田でのマイケル・レヘムさんである。ご覧の通り、日本に来てからの作品がずらりと並んでいる。でも、忙しそうにセッセと会場でも描いていた。 タンザニアの各地で随分たくさんのティンガティンガを見ることができたのだが、このように描いているところを直に見せてもらわなかった。まさに絵画のLIVEである。
画材は日本のホームセンターで買った看板用のペンキ。板はタンザニアでは木くずを圧縮して固めた建築資材を使うのだが、日本のベニヤ板の方が筆の滑りが良いとお気に入りのようだ。
ティンガティンガをタンザニアで買うと通常のスーツケースに入らないサイズのものが多いのだが、ご覧の通り、日本の住宅事情に合わせて小さめの絵を主として描いているのである。
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