TANZANIA & KENYA:キリマンジャロ峰
2006-08-30T15:52:38+09:00
yonezawa02
爺(ジジ)さん! 頑張ってネ。
Excite Blog
[77] キリマンジャロの白い頂き(16)
http://yonezawa.exblog.jp/2509546/
2005-04-14T20:51:00+09:00
2006-06-08T12:32:02+09:00
2005-04-14T16:59:58+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
破風老(英名:Pablo 本名:本山隆史)
「キリマンジャロの白い頂き」の最終章は、
タンザニアにいる時から、この方にご登場をお願いすることに決めていました。
親しみを込めて、パブロさんと呼ばせていただきます。
10枚の写真はすべて昨年12月にパブロさんに送っていただいたもので、
本人ご了解の上で載せさせていただきます。 写真は美枝子が高山病で下山した翌日なのですが、キボ・ホテルでパブロさんと
再び出会い、一緒にマラング村をあちこち見学した時のものです。
ミシン縫いなど、若い女性たちが職業訓練をしている施設(6点)を訪問しました。
休校中の学校(2点)に行ったり、キリスト教の教会(2点)を見学した時のものです。 拝啓 本山パブロ様
早いものですね。あなたにお会いしたのは6カ月前になります。でも、マンダラ・ハットでお話ししたことが昨日のように思い出せます。お元気ですか。今、どこの国におられるのですか。 我がBLOGで言えば[66]のところになるのですが、あなたは心ならずも登頂できないまま下山の途中。我々は登り始めて最初の山小屋(マンダラ・ハット)で、日本人同士がバンガローの4人部屋で一緒に泊まることになりました。久しぶりに日本語でお話しできること事態が嬉しかったのですが、山のこと、プロ野球のこと、長時間にわたってのお付き合い、有り難うございました。 「4500mあたりで何となく下山することにした」とおっしゃっていましたが、その気持ち、すごくわかりました。ご存じの通り、我が相棒が高山病で下山した後は、僕はひとりになったのですが、あの広々とした景色の中をテクテク歩くのは、何か、むなしさが付きまといました。
あなたも僕も昭和14年生まれ、65歳。登ることの体力よりも、心の拠り所をどこに持っていったらいいのかという問題がずっとありました。でも、まあ、僕は最後まで登りました。最後まで「登りたい」という意欲を失わないまま成し遂げたことを、今は不思議に思っている次第です。 パブロさんはアフリカの第二峰のケニア山に登頂しているし、ヒマラヤをはじめ、世界中の山々に登っておられるのがうらやましいのですが、いちばん印象に残っているのはあの話しです。
やはり山好きだったパブロさんのお父さんがお亡くなりになり、お骨を持ってネパールの不思議な滝「パタレ・チャンゴ(注1)」に行き、滝壺に骨壺を投げ込む…まるで映画のワンシーンを見ている感じです。遠くにはアンナプルナ、眼下にはパーディ川のゴルジュ帯。残念ながら僕はポカラに行ったことがないのですが、美枝子は3日ほど滞在したことがあります。 パブロさんは生まれも育ちも関東なのに、プロ野球はタイガースファン。僕もそうだし、同い年なので出てくる回顧シーンがピッタリ。でも、話しの中心はヤクルトの古田敦也選手でした。
考えてみれば、昨年は優勝云々を除外したら、古田敦也が最高殊勲選手だった。彼の強いリーダーシップがなくて、ナベツネ流にプロ野球が旋回していたと想定したら、背筋が寒くなります。キリマンジャロの山小屋で日本のプロ野球を熱く語る…本当に素晴らしいひとときでした。 昨年10月はケニアの奥地(キスムでしたか?)で水資源のお仕事をされていたのですが、それが一旦終わり、年末に埼玉県のお宅に帰られていました。年賀状にはOut of Africa(注2)と書いておられましたが、今度はどこの国に行かれたのですか。南米あたりかなと想像しています。 申し遅れましたが、いただいたDiamoxは効きました。あの秘薬のお陰で登頂できたと言っても過言ではありません。それと、マンダラ・ハットでパブロさんと我々夫婦ともうひとり、スウェーデン人の若者が同室になったのですが、彼とはずっといい仲間でした。ホロンボ・ハットの食堂で美枝子が3300mで下山したことを伝え、I am aloneと言ったら、彼もI am aloneと返答してくれ、それ以後、I am aloneが彼と僕の挨拶用語になりました。それと、ギルマンズ・ポイントからウフル・ピークに向かう時、誰がトップで下山してくるかが関心事でしたが、予想通りミスタースウェーデンでした。あの1m90cmの長身と足の長さは伊達じゃなかったですね。 まだまだ書きたいことはたくさんありますが、この辺にしておきます。お元気で。 (注1)ネパールの第二の都市であるポカラの滝の名前。ポカラ空港から言えば3kmほど南西。
ペワ湖から流れる水が地中に吸い込まれる様子が異様である。Deviというスイス人の女性
が滝壺に落ちて不明になったことから、Devi's Fall(ダビッド・フォール)とも呼ばれる。
(注2)デンマークの女流作家であるアイザック・ディネーセンの長編小説「アフリカの日々」の
原題。パブロさんはディネーセンが大好きで、ケニアのナイロビ郊外にあるカレン・ブリ
クセン博物館には日本からご家族を呼び寄せて訪問しておられます。[15]参照。
【LOG in BLOG】05.4.14
タンザニアのフローレンス夫人よりE-mailを届きました。読みにくいので日本語を添えます。
Dear Yonezawa family,
Koko wa mina genki desu, Tanzania wo ame ga aru choto samui desu.Aritai desunee.
We want to see you too. Missing you a lot our very dear.
Regards Florence.
親愛なる米沢ファミリー。
こちらはみんな元気です。タンザニアは雨が降り、ちょっと寒いです。会いたいですね。
私たちも会うことを望んでいます。心から親愛を寄せているあなた方に会えなくて寂しいわ。
敬具 フローレンス。 タンザニアの3〜5月は大雨期です。だから、少し寒いと思いますが、日本の冬のように寒いわけではありません。上の写真は三ノ宮駅付近。2001年12月、フローレンス夫人と当時5歳のカルビンくんが帰国する時のものですが、彼らには日本の冬の寒さは耐え難いもののようでした。
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[76] キリマンジャロの白い頂き(15)
http://yonezawa.exblog.jp/2486845/
2005-04-10T21:32:00+09:00
2006-04-17T21:21:53+09:00
2005-04-11T17:38:06+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
日本人ほど山を崇び、山に親しんだ国民は、世界に類がない。
昔から山に縁があり、どの芸術の分野にも山を取り扱わなかったものはない。
近年、登山ブームと言われるが、それはただ一時におこった流行ではない。
日本人の心の底には、いつも山があったのである。
「日本百名山」 深田久弥・著 新潮社 ジャーン! これがキリマンジャロに登頂した証明書である。
世界中いろいろな山があるが、このようなものを発行してくれる所はあまりないでしょうね。
金色の枠がついているのはウフル・ピーク(5895m)に登頂した証しである。ギルマンズ・ポイント(5690m)で折り返した場合は銀色となる。ガイドや公園管理者のサインがある。
一番下に9980/04という数字があるのは2004年では9980番目に登った人という意味のようだ。3月〜5月の雨期はあまり登らないでしょうから、一日平均の登頂者は40人ぐらいとなる。 額縁はダルエスサラームで1000円で買ったものである。上下に象、左右にキリンが彫ってあり、素朴さが気に入っている。ま、則二にとっては掛け替えのない宝物であり、登山をする人に見せると「オッ」と言ったまま言葉を失うほど驚いてくれるのが、なんとも楽しいのである。 この証明書を発行してくれたのが、マラング・ゲートの中にあるキリマンジャロ国立公園管理事務所のこの方である。Kelvin Mollelさん。日本語が多少しゃべられる愉快な人である。
則二がゲートに到着するまで、美枝子はこの方に「キリマンジャロの歌」を教えてもらたりしながら時間をつぶしていた。「タンザニアでの一番のボーイフレンド」と美枝子は言っている。 マラング・ゲートからキボ・ホテルに行き、レンタルの寝袋やウェアを返却した後、この日は人口10万人の街のモシまでクルマで行き、ブリストル・コテージというホテルで泊まった。
翌日は早朝にダルエスサラーム行きの高速バスに乗らねばならないのだ。その間、移動はすべてキボ・ホテルのドライバー兼レストランスタッフのコリさんがやってくれた。 ブリストル・コテージから見るキリマンジャロは壮大であると評判なのだが、この日、厚い雲に覆われていた。JATAtoursが計画してくれた「山を見ながら美酒を飲む」には至らなかった。 「山を見ながら」と言えば、上記の一文、深田久弥が「東京だけは山に遠いが…」と書いているが、日帰り登山をする場合、東京の人が最もバラエティ豊かな計画が可能ではないかと思う。 見ただけで登りたくなるような山が東京の周囲には数多くある。関西人としてはうらやましい。
ま、隣りの芝生はきれいだと言っているようなものなのだが… 「山好きな日本人」を自認する我々であるが、今回、キリマンジャロ登山にチャレンジするには不備な面があった。実は、二人とも登山靴をタンザニアに持って行ってなかったのである。 則二は数年前から普段履きにしていた、ソールが磨り減ったサロモンの軽登山靴。美枝子は旅行用として買ったアディダスのアドベンチャーというウォーキングシューズ。いずれも6000m級の山に登るには相応しくないものである。キボ・ホテルの登山用具レンタル室には登山靴も準備されているのだが、履き慣れない靴で長時間歩く気にはなれなかった。飛行機の「荷物は20kg」という制限は我々のような長期滞在型の旅行には厳しすぎる条件で、持って行きたくても持って行けなかった物がたくさんある。その「恨み節」をエピローグで書きます。
【LOG in BLOG】05.4.10
例年より少し遅れて桜のシーズンに入りました。神戸市西区桜が丘という住宅街の桜です。
桜が丘の桜がきれい…と聞いて駆けつけたのですが、町名と町の名物が一致しているのがいい。
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[75] キリマンジャロの白い頂き(14)
http://yonezawa.exblog.jp/2458017/
2005-04-07T22:26:00+09:00
2006-06-08T12:10:49+09:00
2005-04-07T22:26:07+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
ちょっとトイレにと言って、皆の見ていないところで吐いた。
キリマンジャロは技術的にはそれほど難しい山ではないが、
一度にかなり高度を上げざるを得ないので、高山病が出やすいのだ。
寒気、吐き気、頭痛、手足のむくみ…僕には高山病の初期症状のすべて現れた。
「落ちこぼれてエベレスト」 野口健・著 集英社 前回[74]Special Thanks…お世話になった方々への感謝の念を述べさせていただきました。
今回は高山病と凍傷について書きます。 写真はマンダラ・ハットのそばにあった研修所のような施設です。ホロンボ・ハットから一気に下だり、午前11時にはマンダラ・ハットに到着。昼食をたべおわって散策していたら、映画「風と共に去りぬ」のラストシーンのような雄大な景色の中に、集会所や広場があった。 ところが、標高2729mのこの地に高山病についての注意書があるのです。美枝子はここから500mほど登った所で下山を余儀なくしたのですから、もっともな掲示板ではあるのですが。
七大陸最高峰最年少制覇の野口健さんは17歳でキリマンジャロに登頂していますが、高山病には相当ひどく、長時間にわたって悩まされたようです。彼は16歳でモンブランに登っているし、自分では高山病にかからない体質であると思い込んでいたそうですが。
とにかく、ベテランも若者も、キリマンジャロ登山には高山病が付き物のようです。 でも、則二は頭痛や吐き気が一切なく、不思議なぐらい高山病と無縁のまま下山できました。
では、どのようにしたら高山病が避けられるのか。則二の体験から2点ほど書いておきます。 1、最初の山小屋のマンダラ・ハットで1.5リットルのミネラルウォーターを3本買いました。
2人で飲む分として買ったのですが、マンダラ・ハットから2時間半ほど歩いた所(3300m)で美枝子は下山することになりましたので、その日から1日1本ずつ水を飲むことになったのです。ノドの乾きはほとんど感じなかったのですが、歩いている時や寝る前に飲み続けました。
食事のたびに出るスープは鍋ごとテーブルに置かれますので、2杯、3杯と飲みました。ティータイムに出てくる紅茶(チャイ)も薄めにして何杯も飲みました。水分の摂取が大切なのです。 2、Diamoxという利尿剤が体質的に効きました。山小屋の部屋はトイレがないため、夜中に何十メートルか寒い屋外を歩いて行くのですが、それが良かったのでしょう。利尿剤がなぜ高山病に効くのかという医学的な説明はできないのですが、ネパールなどでは発売しているようです。 上の写真は午後1時30分、無事、マラング・ゲートに到着した時のものです。
この日は下りばかり4時間ほど歩いただけで疲れは感じていませんでした。「もう歩かなくていいのだ」とホッとしていたのですが、この時になって初めて気づいたことがありました。それは… ゲートに出迎えてくれた美枝子に指摘されて気づいたのですが、顔などを凍傷していたのです。額とか耳が黒ずんでいたのです。下山途中、かゆみは感じてポリポリ掻いていたのですが、まさか凍傷とは思いませんでした。それと、手先がシビレていたのですが、それは疲れのせいだと思っていました。これも凍傷とわかりましたが、幸いにも治療をするほどではありませんでした。 ギルマンズ・ポイントからウフル・ピークまでの往復は2時間ほどかかったのですが、身を切られるような寒風が吹いていました。残念ながら気温を測定していないのですが、ヤッケのフードが顔から離れた状態で凍ってしまい、耳までも凍傷しました。手は通常のスキー手袋だったのですが、充分でなかったのです。ガイドのヘディックさんは厚い手袋を2枚していましたし、
[72]の写真でおわかりのように彼は顔も帽子やマフラーで覆っていました。下の写真は「軽はずみに登っちゃいけないよ」と言っていますが、装備の点で充分でなかったことを認めます。 額や耳の凍傷はダルエスサラームに帰って、かさぶたが剥がれましたが、アザにはなりませんでした。手先のシビレはこの後2ヶ月間、日本に帰国しても続きましたが、徐々に回復しました。
【LOG in BLOG】05.4.7
子供たちの春休みが終わりかけて、やっと桜が咲き始めました。
神戸はまだまだ肌寒い日が続いています。奥須磨公園にて。
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[74] キリマンジャロの白い頂き(13)
http://yonezawa.exblog.jp/2405520/
2005-03-31T22:22:00+09:00
2006-06-08T12:23:49+09:00
2005-04-01T05:07:43+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
私たちはある共通する一点で同じ土俵に立っている。
それは、たった一度の人生をより良く生きたいという願いなのだ。
そう思ったとき、異国の人々の風景と自分が初めて重なりあう。
「アフリカ旅日記 ゴンベの森へ」 星野道夫・著 メディアファクトリー・発行 タンザニアでもケニアでもいちばんよく売れているミネラルウォーターのラベルである。キリマンジャロの写真が横に長く、扁平になっているのが気になるのだが、結構おいしい水である。
今回の登山中、則二はずっとこの水を飲んでいた。料理に使っていた水やポーターたちの飲料は「ボイル・ウォーター」と言って、山の水を一度沸かして殺菌したものを使っていた。 タンザニアは空気が乾燥し、日本の初夏のような気候がずっと続くせいか、ビール党が多いように思いました。そのような方々に支持されているのが、このキリマンジャロというビールです。 さて、第5日目、この登山の最終日である。ホロンボ・ハットを出発し、マンダラ・ハットを経由して、マラング・ゲートまでの33km。2日がかりで登ってきた登山道を1日でくだる日である。昨夜、たびたび目が覚めるほどの風が吹き、ザァーという音をたてて雨が降り続けていた。 でも、朝方は熟睡し、目が覚めたらカラッと晴れていた。ホロンボ・ハットの周囲には水たまりひとつなく「あの風雨は夢か幻か」と思いながら景色を見ていたら、昨日までは雪のかけらも無かったマウェンジ峰が白くなっていた。高峰では、ひと晩じゅう、雪が降り続けていたのだ。 そして、キボ峰(キリマンジャロ主峰)に目を向けるとそれ以上に真っ白。平たい上部の右よりの所がギルマンズ・ポイントだから、一夜にして日本で言う「冬山」になっているのです。
(ここから下の3行はダルエスサラームで書いた[18]臨時ニュースをそのまま転記します)
ここは南半球ですから、春のドカ雪といった感じ。ガイドのヘディック氏が厳しい顔をして「今回の計画がもう一日、後ろにズレていたら登頂は難しかったでしょう」と言いました。
今回の山行を総括して「幸運が85%、努力とチームワークが15%で登れた」と言っておきます。 ホロンボ・ハットからの下山は各自バラバラになるので、最後の記念写真を撮った。
左から、燃料担当ポーターのフェディスンさん。歩く速さがスゴイ。元気いっぱいの若者だった。
料理担当のガブリンスさん。彼は朝、昼、夕食、それと、3時のティータイムの献立をバラエティ豊かなものにしてくれたし、則二の食欲が衰えなかったことが成功の最大要因だと思う。
ガイドのヘディックさん。彼の父親は有名なガイドだったらしく、その自慢話をよくしていた。
サブの料理担当のウイリアムさん。彼はガブリンスさんを師事し、いろいろ学んでいた。
装備担当のヘディック・ジュニアさん。人懐っこくって、可愛くて、血統の良さを感じた。
1人のガイドと4人のポーター、よくやってくれた。感謝の気持ちでいっぱいである。 上記の5人以外に、2日目に美枝子と共に下山したアシスタント・ガイドのモゼスさん(右端の方)、
そして、ポーターのケッシイさん(右上の帽子の人)。Asante sana / Thank you / ありがとう。 そして、次の方々にお礼を述べます。
KIBO HOTELのManaging DirectorのJulita McNeeseさん。登山に関するプロフェショナルな対応と、早めに下山した美枝子がホテルで楽しく過ごさせていただいたことに対して感謝します。
キボ・ホテルの食堂の壁に貼っていただくための登頂記念の写真葉書を作ろうとしていますが、まだです。お世話いただいたガイドやポーターの写真を入れて制作して、その内、送りますので。 ダルエスサラームの旅行社のジャタツアーズ(JAPAN TANZANIA TOURS LTD)の根本利通社長と山田智穂さん、そして、スタッフの皆さん。あなた方なくして今回の登山はありませんでした。
前回[73]、コメントをいただいたAkeyさんもお世話になられたようですので、JATAtoursについて少し書きます。JATAtoursは「ふしぎ発見」「ウルルン滞在記」「世界遺産」など、昨年の一年間に8本ものテレビ番組のコーディネーターをなさっています。で、我々がダルエスサラームに滞在している時に「注目を浴びる仕事をされていいですね」と言っていたら、根本社長がセルー動物保護区のテレビ取材に同行している時に怪我をされました。それで、急遽、山田さんがピンチヒッターで現場に行くという一幕がありました。我々はくつろいで見ている番組ですが、現場のご苦労は大変ですし、危険もあるようです…というエピソードを書きたかったのです。
今後もいろいろとお世話になることでしょうがよろしく。上の写真はJATAtoursのHPより。
タンザニアに関する旅行、その他の何でも…http://jatatours.intafrica.com/
【LOG in BLOG】05.3.31
今回から入稿日とLOG(日記)の日付が一致します。
今年は桜の開花が遅れています。でも、我が庭にはビオラが咲きました。8種類咲いたうち、4種類を載せます。間違っているかもしれませんが、上から順に名前を書きます。
「ロスキャッスル」「ブルースワール」「サビック・スノー」「フローレ・イエロー」
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[73] キリマンジャロの白い頂き(12)
http://yonezawa.exblog.jp/2384348/
2005-03-29T17:24:00+09:00
2006-04-17T21:38:25+09:00
2005-03-29T17:23:26+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
苦労して山頂に行く必要も感じないし、頂上に万年雪があろうがなかろうが、
その中にヒョウが眠っていようがいまいが、
そんなことは暇な外国人のお遊びに過ぎないのだ。
「空はアフリカ色」 松本仁一・著 朝日新聞社・発行 前回ブログの最終写真もそうだったのだが、上に載せたような登頂記念写真は10枚ほど撮った。
我々の後から登って来たパーティーのガイドがバチバチ撮ってくれた。デジカメに慣れた若いガイドだった。5枚ほど撮った段階で、ガイドのヘディックさんに「僕ひとりの写真を撮らせてくれ」と言った。でも、彼は頑なにそれを拒否し、その場から動こうとしなかった。62歳、ベテランガイドの信念なのか。僕にとっては記念的な出来事であり、この登山の最終段階でヘディックさんが最大の協力者であることは認めるが、彼だけがこの誇らしい行為の貢献者ではない。
キボ・ハットに待機している4人のポーター、そして大勢の人達にお世話になったことを思った。 さて、下山である。則二としては若い頃からの「特技」がある。石ころがゴロゴロしている所でも走りおりるのである。ヘディックさんだけでなく、他のパーティーのガイドも注目してくれた。光栄にもRunning Japani(走る日本人)というニックネームをいただいた。
午前10時10分、キボ・ハットに到着した。4人のポーターたちと握手。結構、喜んでくれた。
則二は65歳。山小屋の登録時に確認したが、今回、同時に登った人たちの中で最高齢だった。「年寄りにしてはよく登った」と思ったのだろう。
昨夜のベッドに再度もぐり込み、1時間ほど仮眠する時間となったが、寝不足のはずなのに登頂の興奮が冷めていないためか眠れなかった。
なお、同室の50歳ぐらいのイギリス人2人組の内の1人が5000m付近で高山病になり、ガイドに連れられて下山していた。隣りのベッドでビニール袋に入った液体を鼻や口に押しあてるようにして酸素吸入をしていた。でも、危険な状態を脱出するために我々より少し遅れて、この日の内にホロンボ・ハットまでおりた。上の写真、約50km彼方のメルー山が近そうに見えている。 ホロンボ・ハットまではルンルン気分で、午後3時前には到着。夜中の0時から15時間にわたる過酷な一日を終えることができた。バンガローでくつろいでいたら、サッと雨が降り、虹が出た。 目線よりも低い位置で、虹が色濃く、鮮やかに輝いていた。 夕刻、いい天気だった。それなのに、この日の夜、狂ったように風が吹き、雨が降ったのだ。
なお、2泊目とこの4泊目と、2回も同室となったスペイン人の30歳前後の3人組若者は他のパーティーの若い女性にアプローチするなど、元気いっぱいなところを見せていたのだが、3人とも5000m以上の高所に行ってから調子を悪くして、ギルマンズ・ポイント(5690m)で折り返していた。この夜、則二がウフル・ピークに登ったことを伝えると大変うらやましがった。
【LOG in BLOG】05.3.21 広島県福山市の南端の観光スポット。瀬戸内海の中心部ということで「潮待ち」の港として中世から栄えた鞆の浦に行きました。左から朝靄に霞む仙酔島、弁天島、皇后島をホテルの窓から。
箏曲の宮城道雄は父の出身地である鞆の浦をイメージして「春の海」を作曲したとされている。 鞆の浦は江戸時代にも繁栄し、その街並みが昔のまま残されています。蔵や納戸に古い雛飾りが保存されているということで、3年前から「街並ひな祭」という催しを開催。今年も2月17日から3月27日まで、商店、食堂、旅館など、街のあちこち80カ所で珍しいお雛さんを展示しました。 保命酒を醸造していた太田家という国重文の遺跡に展示してあった江戸時代の雛飾りである。 お茶屋さんに飾ってあった昭和15年のお雛さん。手前に購入した時の領収書も置いてあった。
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[72] キリマンジャロの白い頂き(11)
http://yonezawa.exblog.jp/2364424/
2005-03-26T20:14:00+09:00
2006-08-30T15:52:38+09:00
2005-03-27T01:36:10+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
前方を指さして見せると、視界いっぱいに、大きく、高く、広々と、陽を浴びて
信じがたいほど白々と輝いているのは、キリマンジャロの四角い頂上であった。
あ、これが目ざす目的地だな、と彼は気づいた。
「キリマンジャロの雪」 アーネスト・ヘミングウェイ著 佐伯彰一・訳 講談社 ギルマンズ・ポイントからウフル・ピークまでは2.5km。ヘミングウェイは「四角い」と書いているが、ほとんど真ん丸の7kmほどのクレーターの外輪山を3分の1周する。大体は水平歩行なのだが、ずっと標高5800m前後の高所のために息苦しさが続く。片道1時間は要する。 広々とした雪原の中の一本道を抜けると、クレーター側に鋭く削り取られ、凍てついた岩場の上を恐る恐る歩く。足を滑らせたら大変だ。キボ・ホテルの登山用具レンタル室でスキーストックに似た杖を持って行かないかと言われたが、断ったのだ… ここに来て必要性が理解できた。 火口側の斜面にも眩しく日が射したが、その下はガスがかかり、底を見ることはできなかった。
30分も歩くと、すでにウフル・ピークに登頂し、下山しているパーティーとすれ違う。4日間、同じコースを歩いているので顔見知りが多く「後10分だよ」とか「すぐそこが頂上だ」と言ってくれるのだが、なかなか、ナカナカである。起伏に乏しい登山はどこが頂上かわかりにくいのだ。 頂上が近づいたと思われた頃、ラッシェル氷河の上部に出くわした。赤道の南、わずか340kmほどの場所なのに、こんなにデッカイ氷の塊があると信じられますか。山麓から見ると「キリマンジャロの雪」なのだが、ここに来て初めて雪だけではなく、氷河があることを確認する。 少しずつ晴れ間が多くなり、氷河の向こうにタンザニア側の平原が少し見えるようになった。
縦にシワシワのある絶壁とツルッとしたテーブル型の一枚氷。それらが交互に斜面に沿い、階段状に構成されている。そんな不思議な光景を横目に見ながら、気持ちは焦っていた。我々よりも後方のパーティーはギルマンズ・ポイントで折り返し、下山してしまうのでは思っていた。
ウフル・ピークを目の前にして、雪の上に四つん這いになって息を整える回数が増えた。 頂上は前を歩いていたパーティーが標示板の前で写真を撮っていたのでわかった。何もなかったら通り過ぎてしまいそうなほど、平坦な雪原だった。ガイドのヘディックさんと握手をした。彼は祝福の言葉を言ってくれたように思うが聞き取れなかった。アフリカでいちばん高い所に立っているという想いが胸に立ちこめた。2004年10月13日午前7時8分。記念すべき日となった。
風で吹き飛ばされたのか、雪は少なめ。でも、豹の屍は見あたらないし、ニエレレ初代大統領のレリーフもどこにあるのかわからない。この写真を見てから気づいたのだが、右端に薄く見える山影はタンザニアの第二峰、メルー山(4567m)だと思う。アルーシャの近くの単独峰である。
【LOG in BLOG】05.3.16
「いかなご」という魚をご存じですか。成長すると25cmほどの細長い海水魚で、全国各地で穫れます。料理法は焼いて二杯酢(酢と醤油)で食べるというのが最も一般的ではないでしょうか。
ところが、神戸市西部と明石市だけで伝わる「いかなご」の稚魚を使っての佃煮があるのです。「くぎ煮」と言います。3〜5cmの生まれたばかりの稚魚でつくりますので、時期が3月上旬から4月上旬に限られます。垂水港と明石港から陸揚げされたものを、その日の内に佃煮にします。
この時期、我が家は大変忙しくなります。朝9時にはクルマで垂水駅近くのスーパーマーケットに行きます。因みに垂水駅前の広場には「いかなご」を形取ったモニュメントがあります。
スーパーは10時開店ですが、長い行列ができます。ビニールの袋に入った1kgの稚魚が800〜900円。それを10袋ぐらいは買って持ち帰り、午前11時ぐらいから3〜4時間かけて、我が家の台所で美枝子が調理します。昼食も立ったまま食べねばならないほどの忙しさです。 おいしいですよ。我が家の「いかなごのくぎ煮」のラベルをご紹介しますが、一般に売られているわけではありません。調理法についてお知りになりたい方はこちらのHPで。
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[71] キリマンジャロの白い頂き(10)
http://yonezawa.exblog.jp/2346517/
2005-03-24T21:27:00+09:00
2006-04-17T21:50:19+09:00
2005-03-24T21:27:17+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
山から見たアフリカ大地にのぼる太陽と、その薄い光線に輝く階段状の氷河であろう。
この時ばかりは時間の流れが止まる。
静寂だけが山頂を包み、だれしも神聖な心持ちになる。
古来より世界各地で山を神と仰ぎ、信仰の対象にしてきたことが実感できる。
「アフリカ ふたつの山に登る」 水野一晴・著 旅行人・発行 いよいよ頂上アタックの日を迎えた。これまでの3日間は急な上り坂もなく、4日目のこの日のためのトライアル(試走)と書いたマニュアルもある。一睡もしないまま出発の時間が近づいているが、まったく眠気を感じないほど気持ちは高ぶっていた。
この日の服装を書いておく。帽子は毛糸で編んだ目出帽なのだが、眼鏡をかけたままでは被れないので、たくしあげて被る。スキー用のダウンジャケット、その下にセーター。普通のズボンの上にオーバーズボンを履く。手にはスキー手袋、靴下は2枚履く。
リュックの中には予備の防寒着も兼ねてGORE-TEXの雨具上下、マンダラ・ハットで購入しておいたミネラルウォーター、小型のデジタルカメラと単3電池10本(懐中電灯用とデジカメ用)など。 紅茶とクラッカーで軽い朝食をとる。午前0時、約50人ほどのキボ・ハットの宿泊客が一斉に外に出る。星が見えない。前日同様に曇っているようだ。この日、ポーターは山小屋(ハット)待機となるので、ガイドのヘディックさんと則二の二人で歩き始める。手にはハロゲンランプの懐中電灯。ところが、ヘディックさんはリュックも水筒もない。こちらのランプが明るいためか、ヘッドランプのスイッチを入れないまま歩く。「何じゃ、こいつは!」と思うが、英語で言いがかりをつけるのは難しいので、そのまま登り始める。この日は最初から急勾配である。
インターネットで読んだキボ・ハットからの登はん記録に「富士登山に似た感じに…」と書いたものがあったが、確かに頂上直下の急坂を深夜に行列して登るのは、ここと富士山だけかもしれない。最初の2時間ぐらいは抜きつ抜かれつとなり、休憩している他のパーティーのガイドが歩いている則二のお尻を「ジャパニ(日本人)」と言って叩く。まっ暗がりで人の顔など見えないはずなのだが、激励に感謝を込めて日本人らしく「さんく・ゆー」と返礼する。足下はくずれやすい砂地である。ガレ地を右に左にジグザグに登っていく。我々と同じようなペースで登っていた人達の中にも高山病の症状が出て、突然、下山する人も見かけた。その場合、ガイドがひとり同伴しておりる。そのため、2〜3人くらいのパーティーでもガイドが2人はつく。 5200mを過ぎたころであろうか。前後に人影が少なくなり、ほんの少し明るみ、地面がやっと見えるようになった頃、次第に息苦しくなってきた。10歩あるいては休み、5歩あるいては休み。しかも、腰を曲げて下を向き「ハァ、ハァ」と荒い息をして、上を向くことができない。
ヘディックさんにリュックを持ってもらう。ポリ容器に入ったミネラルウォーターを飲もうとしたら、半分くらい凍っていた。登ることに懸命になっていたのだが、やっと寒さを感じた。 凍りついた岩石の間を縫うようにして登っていく。次第に明るくなるが、霧で視界はきかない。 午前5時58分、写真でもわかるように疲れ切って、キボ峰のクレーターの一角にあるギルマンズ・ポイントに到着する。この日、キボ・ハットを出発したパーティーは約20組だったと思うが、10番目くらいには着いたようだ。しばらく座り込む。ウフル・ピークよりも205m低いが、ここを頂上とする場合がある。ヘディックさんが「ウフルに登る?」とたずねたので、この時ばかりは元気良さそうな声を出して「登りたい!」と応える。こちらのコンディションを考えてシブルのかと思ったら、意外と簡単に「行こう」と言った。この辺りから少しずつ元気が出てきた。
因みに、1958年1月19日に日本人としてキリマンジャロに初登頂した9人の登山隊(隊名が文献に無記載)は、このギルマンズ・ポイントを頂上としている。([63]参照) そして、少し歩きかけた時、周りが急に明るくなった。雲間から太陽が覗いた。ご来光である。
ギルマンズ・ポイントは東向きなので、ご来光を迎えるにはうってつけなのだ。午前6時15分。
薄暗い空の彼方に、ぽつんと紅い点のようなものが浮かんだかと思うと、
みるみる丸く膨らみ、側峰のマウェンジ峰の背後から、オレンジ色の光輪を放った。
雲海を押し分け、空一面を紅く染めて、太陽はぐいぐいと昇って行く。
荘厳な日の出の一瞬であった。
「沈まぬ太陽 (アフリカ篇)」 山崎豊子・著 新潮社
ここでのご来光を綴った文章としては、これに尽きると思う。この長編小説のタイトルには、無論、広い意味があるのだろうが、そもそもの所以(ゆえん)はここでの荘厳さではないだろうか。 日の出をバックにした写真は失敗する…という定義を証明したような写真である。
太陽が見えたり見えなかったりの薄曇り。下界は見えない。クレーターがドンと落ち込んでいるのはわかり、そのエッジ部分を歩くので恐怖感はある。でも、そのスケール感がつかめない。
【LOG in BLOG】05.3.14
11日間の東京都と神奈川県の旅行が終わった。夕刻、新幹線に乗る時は天気が悪かったが、静岡県に入って好天となり、列車の中から富士山を見ることができた。上記の本編で「富士登山」と書いているが、実は登ったことがない。富士山は登る山ではなく、見る山であると思っている。 3月中旬にしては雪が多い気がする。それに比べてキリマンジャロは氷河が急激に少なくなっている。富士山の雪とキリマンジャロの氷河。今後、地球温暖化の指針になるのではないだろうか。
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[70] キリマンジャロの白い頂き(9)
http://yonezawa.exblog.jp/2330678/
2005-03-22T22:32:00+09:00
2006-06-08T12:14:34+09:00
2005-03-22T22:32:06+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
今でも噴気活動が認められるキボ峰の山頂には、
幾重にもなったカルデラが見事であり、氷河が標高4570mにまで達している。
「アフリカを知る事典」 中村和郎・著 平凡社 この日の目的地の4703mのキボ・ハットが近づくに従って、まるで月面のような無味乾燥な、
荒涼とした地肌の上を歩くことになる。景観はほとんど砂漠に近い。冷寒高原と呼ばれている。
食事の度にスープを2〜3杯、紅茶(チャイ)をガブガブと飲んで、水分摂取に努めているためか、
頭痛など高山病の症状が出ていないし、この時点では空気の希薄さを少しも感じていなかった。 上の写真のように山頂付近に厚い雲が覆った。その雲がドンドン降りてきて、我々を包んだ。ほとんど行く手が見えなくなった。と言うことで、この第三日目の写真はこれが最後となった。
キボ・ハットへの道は一本道でわかりやすく間違う心配はない。The Saddleと呼ばれる平坦な道からキボ峰への急な登りが始まりかけた所にキボ・ハットがあった。順調に歩いたために、午後1時半には山小屋(ハット)に到着した。この山の一番の高所にある山小屋だから、一段と頑丈な造りになっている。水場がまったくないために、屋根の下に雨水を溜める装置があった。でも、我が隊はホロンボ・ハットからポーターが運んでくれた水で食事の準備をした。電気は太陽熱で発電したものをバッテリーに溜めて、夜の照明用などに使っていた。
午後5時には夕食をとった。その後、ガイドのヘディックさんに翌日のアタックの装備、服装、注意事項などを聞いて、午後6時には就眠となる。Diamox([66][77]参照)という高山病予防のための利尿剤の最後の粒を飲んだ。「さあ寝るぞ」とシュラフ(寝袋)に潜った。ところが、寝ることができなかった。翌日は午前0時から午後3時まで15時間にわたる行動となる。それをキチッとこなすためには、充分な睡眠が必要だ。「眠らないとダメだ」と焦れば焦るほど眠れなくなった。
同室のイギリス人の50歳くらいの男性2人とアメリカ人の若夫婦の4人はスヤスヤと気持ち良さそうに寝ている。午後11時30分、食事担当のポーターが紅茶とクラッカーを持ってベッドのそばに来たので、一睡もしないまま、やむなくシュラフから出て身支度を始めた。
【LOG in BLOG】05.3.13
九代林家正蔵襲名記念「林家こぶ平・下町感謝の日」の浅草は人・人・人で沸き返った。
朝、上野の鈴本演芸場を出発し、写真のように大掛かりな装飾を施したトラック7台で浅草までパレード。雷門の前でトラックを降りて、浅草仲見世を賑やかに練り歩くというもの。 たまたま娘たちと出かけた浅草見物の折、雷門の前で落語家としては異例のこのイベントを見る機会を得た。でも、群衆に揉まれ、警官に押し返され、あまり近づくことができなかったし、こぶ平の姿はついに見ることができなかった。でも、マイクを通して「有り難うございます」と泣き叫んでいた声は聞こえたし、もらい泣きをした。仲見世での「お練り」に至っては人集りを遙か遠くから見ただけだった。新聞発表では7kmのパレードとお練りでの人出は14万5千人とある。 前回LOG(日記)の勘三郎も素晴らしかったが、こぶ平の下町の人達に支えられた人気にも感慨深いものがあった。勘三郎は父から、こぶ平は祖父から貰った名を継ぐことになる。
こぶ平の林家正蔵襲名披露興行は3月21日から全国各地で行われる。
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[69] キリマンジャロの白い頂き(8)
http://yonezawa.exblog.jp/2301710/
2005-03-18T19:20:00+09:00
2006-04-18T15:25:17+09:00
2005-03-19T03:32:30+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
さまざまな植物相の地帯を通ることになる。
標高、降雨量、地形によって、山塊の周囲をさまざまな植物相が取り囲む。
生物学者はキリマンジャロを高度別植物相の分類の指標としている。
「ユネスコ 世界遺産」 ユネスコ世界遺産センター・監修 講談社 ホロンボ・ハットの朝は爽やかだった。左下に見えるコンクリートの椅子の形をしたものは、
洗面所である。こんなに高地なのに水道蛇口があり、プルプルッと顔を洗うことができる。
上空は青天。でも、眼下には一面の白い雲がたなびいて、下界を見わたすことはできない。 洗剤のテレビCMでよく聞く言葉の「輝く白さ」とか「ふんわり柔らか」というのは、きっと
この雲のような状態なのだとバカな連想をしながら、流れる雲をひとり孤独に見入っていた。 以上の3枚の写真はデジカメのデータによると30秒おきにシャッターを押している。早いテンポ
で変化している。急に上面に凹凸ができてきた。飛行機からヒマラヤの山群を見ている感じに… 第3日目の朝、少し寒いのでレンタルのダウンジャケットを着て歩きはじめた。この辺りは案
内書には「尾瀬のような湿原地帯」と書いてあるが、長い乾燥期の後のためか、ヒース(低木・
草地)帯となっている。この日は、終始、ウフル・ピーク(頂上)を見ながらの登はんとなった。 背後の岩峰は[65]で述べたマウェンジである。標高5151m。火山が風化して、まるで城壁の
ような岩々が連なっている。Last Water(最後の水場)を過ぎると、やや赤みをおびた土や岩の 砂漠となる。ここはThe Saddle(鞍部)と呼ばれ、今回のコースでは最も平坦な上り坂である。
ここから上は植物が一切なく、涸沢さえ無かった。憧れの峰が眼前に迫ってきた。 さて、ここから、またまた、3枚の雲の連続写真になる。 山頂付近にレンズのような半透明の雲があらわれて舞っていた。 データによると、この3枚は1分おきに撮したものである。
【LOG in BLOG】05.3.9
3月と4月の歌舞伎座は「中村勘三郎襲名披露」である。華やいだ雰囲気を味わいたくて、1月下旬にはインターネットで席券を購入しておいた。今回、上京して会う人ごとに観劇のことを伝えると、すでに4月末まで完売なので「何で私の分、買ってくれなかったの」と言う。何とも気分はいいし、舞台への期待が高まっていった。そして、期待を裏切らない芝居を観ることができた。
勘九郎は我々世代には可愛い子役時代をまず想う。そして、最近の平成中村座ニューヨーク公演の画期的な演出など、時代を代表するアーチストになってきたような気がする。 夜の部、3演目観たのだが、三島由紀夫原作のコメディ「鰯売恋曳網」を推す。いわし売り(勘三郎)が一目惚れした遊女を玉三郎が艶やかに好演。二人が結ばれて花道を退場する時に玉三郎が襲名慶事を述べると勘三郎は「そなたは何時までも色っぽいのぉ」と切り返す場面があった。
初演は先代勘三郎が歌右衛門を相手に演じているらしいが、無論、観ていない。
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[68] キリマンジャロの白い頂き(7)
http://yonezawa.exblog.jp/2283896/
2005-03-16T23:46:00+09:00
2006-04-18T15:38:55+09:00
2005-03-16T23:46:28+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
イギリスとかけあい、イギリス領東アフリカ植民地(今のケニア)に含まれていた
キリマンジャロをドイツ領東アフリカ(今のタンザニア)に編入し国境線を変更した。
ケニアとタンザニアの国境線がキリマンジャロの東で複雑に曲がっているのは
そのためである。
地球の歩き方14(97〜98版)「キリマンジャロの歴史」 ダイヤモンド社
There is no historical evidence to support the story
that the dividing line went on purpose around Mount Kilimanjaro
and that Queen Victoria gave it as a present for the Kaiser's birthday as
she already possessed Mount Kenya.
「Short History of Tanzania」Panamas sarl社製の地図の裏面の文章 ガイドのヘディックさんに追い立てられるようにして、やっとの思いでホロンボ・ハットに到着。
山小屋(ハット)の外に我々の荷物が並べられていた。美枝子の私物をひとつの袋にまとめる。
それを一人のポーターに持たせて下山開始。下山スタートが午後2時。すでに30km以上は山中に
入っている。マラソン選手のように走り続けないと明るい内にキボ・ホテルまで到着しない。
日本語で「たのむ」と言って、下山するポーターの肩を叩いたら、ニコッと笑ってくれた。 我々のようにノーマルなスケジュールの場合、山中4泊の内、2泊はこのホロンボ・ハットで宿泊。
だから、他の二つの山小屋(ハット)に比べて大きい。しかもマウェンジ峰に近いためか、水にも
恵まれている。欧米人は到着するとすぐに水シャワーを浴びていたが、真似はできなかった。 下界が白い雲で見えなくなったので、高台にあがって、山小屋(ハット)を見下ろしてみた。
「雲上人」という言葉が浮かんだ。関西の山では、なかなかこうはならない。 夕日が低い位置がら差し込んでくる。夕食の準備に忙しいポーターたちの顔が赤く染まる。
そして、上空には、なぜか赤く染まっていない「キリマンジャロの雪」が覗いている。 今日という日の終焉を告げるように稜線の向こうに陽が沈んだ。静かに、そして、厳かに。 カメラをケースに入れようとしたら、山頂近くから、噴火でもあったのではと思わせるような
赤い雲がこちらを向いた。この景色、トコトン楽しませてくれる。好きだ、キリマンジャロ。 ところで、今回の冒頭の二つの文章は驚きましたね。
イギリスの女王さんがドイツの皇帝さんに「素敵なキリマンジャロ」をお誕生日プレゼントしたという話し。「こっちは、もうひとつ、ケニア山がありますので」と言いながら…豪儀ですね。
国境がいびつな形をしているのは、そのためなんですね。でも、この二国、第一次世界大戦中に戦い、ドイツが負け、タンザニアもイギリス領となったのだが、国境は変えなかった。エライ!
【LOG in BLOG】05.3.8
ご縁があって「ミス・ユニバース日本大会」を見学させてもらった。場所は有楽町駅近くの東京国際フォーラム。入場無料だったが、誰でもは入れない催しのようだ。報道陣が妙に多いイベントでもある。素晴らしいショーの連続なのだが、良いカメラ位置は報道陣が占領していて、我々一般人は横とか後ろからしか見せてもらえないという不満が残った。 すでに一次選考が終わっていて、15人の予選通過者の中からタイで開かれる世界大会に出場する日本代表を選考する催しである。水着あり、ガウンあり。女性美を堪能させてもらった。結果として、上の写真の右端の葛谷由香里さん(21歳・愛知県出身)が代表の座を射止めた。
なお、予選通過者15人の中に「時の人」ホリエモン氏の彼女がいた。結果は「残念ながら…」となったが、報道陣を集める効果はあった。昨年のこの催しは場所がお台場で、フジサンケイグループが後援した。そして、昨年の予選通過者のレッスン風景、決勝の舞台や楽屋をドキュメントした番組がフジテレビをキー局にして放送されたのだから不思議な回り合わせである。 無論、今年のパンフレットには「フジサンケイ」の名前はない。
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[67] キリマンジャロの白い頂き(6)
http://yonezawa.exblog.jp/2276680/
2005-03-15T21:12:00+09:00
2006-04-18T15:46:42+09:00
2005-03-16T01:32:11+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
上方は非常に乾燥し、雨量は年間わずか100mm内外でしかない。
水分といえば霧に頼らなければならないし、
それでも動物や植物はなんとか生きていかなければならない。
「アフリカ Life Nature Library」 タイムライフブックス 標高3300mでの高山病のため、美枝子がアシスタント・ガイドのモゼスさんと下山し始めるのを
見とどけて、則二とチーフ・ガイドのヘディックさんは登り始めた。美枝子の私物を持って登った
ポーターがすでに3720mのホロンボ・ハットに到達しているので、指示を出して、この日の内に
キボ・ホテルまで運ばねばならない。急に慌ただしくなった。上の写真はタンザニア側に拡がった
ゆるやかな山裾。はるか彼方にコーヒーの畑が広がっているはずだが、さだかには見えない。 12時、昼食をとる広場で弁当を食べた。ガイドのヘディックさんが「10分で食べろ」と言った。
何という忙しさ。ここにはトイレもあった。日本の山よりもトイレのある休憩所が多かった。 昼食の後、則二としては早いピッチで登っていたら、山小屋(ハット)の方から降りてきたのが、
装備担当ポーターのヘディック・ジュニアさんである。到着が遅いので心配していたらしい。
この二人は親子。ヘディックさんの父もガイドだったので、親子三代にわたっての山男である。
ジュニアは28歳。彼もやがてガイドの資格を得て、この山を世界の人々に紹介することだろう。 さて、2日目の目的地のホロンボ・ハットに近づくと珍しい樹木に出会った。通称、セネシオ。
Senecio Kilimanjari。キク科だが木生。セネシオと呼ばれる植物は世界中に分布しており、 日本にも自生しているらしいが、このような形態のものは、この山とケニア山だけのようだ。 生長が極めて遅いので樹木らしくなるには200年は要する。雲霧林ならではの樹木なのだ。 他に大きな樹木がないので否応なしに目を引く。高さ5mくらいになるので、別名はジャイアント
セネシオ。霧が発生すると幽霊のように見えるので、ゴースト・ツリーとも呼ばれている。 こちらは一見にしてカラス。「シロエリ・オオハシガラス」といい、日本のカラスより大きい。 くちばしが太く、首の後ろに白い帯がある。残飯を狙って山小屋の周囲をウロウロしていた。
ごめんなさい。東京都と神奈川県を旅行していたために、2週間ほど入稿できませんでした。ノートパソコンを持参して旅行中も入稿しようと思っていたのですが、作業する時間が取れませんでした。よって、しばらくの間、入稿日とは関係なく旅の記録をLOG(日記)します。
【LOG in BLOG】05.3.3 旅に出る前日、プロ野球オープン戦の関西での第一戦<オリックス対ロッテ>を観戦した。白いユニホームがオリックス。黒いのがロッテ。寒い日だったが、試合前の練習ではオープン戦ならではの熱気があった。球場名が今年からスカイマーク・スタジアム。2年前のヤフーBB球場のネーミング・ライツ(命名権)に引き続き、再度のネーミング・ライツである。内外野とも天然芝。 仰木監督に請われて入団した40歳の吉井投手が投げたが、無惨に打たれ、早々に降板となった。
【LOG in BLOG】05.3.4
新幹線で上京した。静岡までは見慣れた景色だった。伊豆半島の山々が雪に覆われているのに驚いていたら、横浜や東京では民家の屋根まで真っ白。川崎市の息子の家に行き、クルマを借りて江ノ島や鎌倉に出かけたら、何百人ものサーファーが海にプカプカ。こちら、冬物のオーバーを着込んでいるのだが、こりゃ何だ。海に浸かりっぱなし。寒中水泳よりもキツイんじゃないの?
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[66] キリマンジャロの白い頂き(5)
http://yonezawa.exblog.jp/2157792/
2005-03-01T20:30:00+09:00
2006-04-18T16:49:03+09:00
2005-03-02T03:47:42+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
半数以下になることもある。初心者が楽々と登頂することもあれば、
ベテランが高山病で後遺症を残したり、命を落とすこともある。
絶対に無理をしないことが大切だ。
「地球の歩き方・東アフリカ」 ダイヤモンド社 マンダラ・ハットの4人用バンガローで、我々以外にもう一人、日本人の方と同室になった。 ケニアの奥地で水資源開発のお仕事をされている本山隆史さん。ヒマラヤをはじめ、数々の 登山歴のある方だった。下山中の彼からいただいたDiamoxという日本では販売されていない 利尿剤を高山病予防のために則二は飲みはじめる。結果として、この秘薬が決め手となった。
ところが標高3780mのホロンボ・ハットを目標としている美枝子はこの予防薬を飲まなかった。 昨日の密林と違ってカラッとした空気だ。マンダラ・ハットからの登りは広々とした草原となる。 ポーターは荷物を背中ではなく、頭に乗せる。不安定な感じがするが、荷物を地面に落とすことは なかった。食糧、炊事道具、プロパンボンベなどを運ぶポーターが、我々には5人ついていた。 ポーターたちは歩くのが早い。朝のうちは我々と相前後しながらとなるが、1時間もすると 前方に姿が見えなくなる。「昨日から、ずっとキリマンジャロ主峰(キボ峰)が見えていない」 と思っていたら、突然、行く手に姿をあらわした。グッと近づいた感じはするが、まだまだ… この2日目は2729mのマンダラ・ハットから3780mのホロンボ・ハットに向かっているのだが、 3000mを過ぎてから美枝子の様子に変化があった。立ち止まって息を整える回数が多くなった。 午前11時、標高3300mの地点で動けなくなった。頭痛と吐き気、高山病の症状が出ている。無理はできない。アシスタント・ガイドのモゼスさん(写真右の人)と一緒に下山することになった。
マラング・ゲートを出発して1日半、25kmは山中に入っていたが、美枝子はこの後、10kmは自力で歩き、残りの15kmは救急隊のクルマで下山。午後4時にはキボ・ホテルに到着した。幸いにも下山の途中でどんどん回復し、ホテルに入った時には酸素吸入などの必要がなかった。 美枝子はこの日からキボ・ホテルに3泊して、則二の下山を待つこととなった。
【LOG in BLOG】05.3.1
3月1日。今日から春である。神戸市須磨区、総合運動公園に行ったら、5万本の菜の花が咲き始めていた。幼稚園の生徒や老人会の方達などが種まきをして、植えつけたものである。
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[65] キリマンジャロの白い頂き(4)
http://yonezawa.exblog.jp/2148945/
2005-02-28T22:33:00+09:00
2006-06-08T12:05:25+09:00
2005-03-01T06:16:01+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
その永遠に至る方法を、あのキリマンジャロの豹は知っているに違いない、
とヘミングウェイは考えた。
「キリマンジャロの豹が目覚める」 芝山哲也・著 情報センター ツタやサルオガセが生い茂る密林から、スクッという感じで展望が開けた所に出たら、そこは マンダラ・ハットであった。最初の山小屋である。標高2729m。4〜8人用のバンガローが並ぶ。 午後2時すぎに到着し、ティータイムとなる。高山病予防のために水分摂取が大切なのだ。
テーブルの上にコーヒー、紅茶など、いろいろな飲物が並ぶ。ポップコーンやビスケットも。 一服したら、「この山小屋の近くにクレーターがあるので」ということで、散歩に出かけた。 クレーターと言っても、随分小さい。大きな樹木が生えていない、少し窪んだ所があるだけ。
キリマンジャロは休火山だから、クレーター(火口)と名が付く場所がところどころに。 クレーターからケニアの平原を見下ろした。どこかわからないがこの山裾には国境線があるはず。 さて、これはタンザニアの代表的な絵画(ティンガティンガ)なのだが、上の山の部分にご注目をいただきたい。左側がキリマンジャロ主峰なのだが、右側にそれよりも高く描かれた山がある。 主峰よりも実際には744mも低い山が裾野のなだらかな斜面に突起している。岩山である。 ロック・クライミングの対象にもなっているマウェンジ峰で、異様な雰囲気だ。肌寒い夕刻。 夕食時にノルウェーの10人ほどの団体がパーティーを始めたので、写真を撮らせてもらった。 このワイングラスを見てください。この高山にこれを持ってきた彼らの情熱に敬服した。
【LOG in BLOG】05.2.28
このブログを始めて6カ月少々になりますが、初めてリンクしてくださる奇特な方があらわれました。と言っても旧知の方で、このブログを始める時にいろいろなアドバイスをしてくださった方ではあるのですが…。七宝焼の作家の土田善太郎さんと奥さんの幸子さんのHPです。
左のメモ帳の中のリンク先をクリックしてみてください。七宝焼ギャラリーが拡がります。ふくろう、猫、テディベア、楽器など、いろいろなテーマで、ブローチ、イヤリング、ネックレスなどが展開されます。デパートやアクセサリー店でよく見かける作品ではありますが… 金沢市の長町武家屋敷の民芸品店で。輪島塗りのアクセサリーと対峙させての展示がありました。
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[64] キリマンジャロの白い頂き(3)
http://yonezawa.exblog.jp/2120656/
2005-02-25T23:49:00+09:00
2006-04-18T16:16:20+09:00
2005-02-25T23:49:16+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
南イギリスの丘稜の花々のように小さい。
見るものすべてが比類ない高貴さをつくりだしていた。
「アフリカの日々」 アイザック・ディネーセン著 横山貞子・訳 晶文社 動物こそ少ないのだが、川の流れる音はしばしば聴こえる。水には恵まれているのである。 そのせいか、シダ類が多い。大きな樹木がシダに覆われ、神秘的な雰囲気を醸し出している。 巨大な密林の中で小さな花をふたつ見つけた。いずれもツリフネソウの仲間のようだ。 距(きょ)と言って、花弁の基部に袋状の突起があるのが特徴です。
こちらはImpatiens Kilimanjari。キリマンジャロのツリフネソウ。 もうひとつはImpatiens Papilionacea。蝶々の形をしたツリフネソウ。いずれも可愛い。 我々の山案内人を紹介します。右はチーフ・ガイドのヘディックさん(62歳)で5日間同行した。
左はアシスタント・ガイドのモゼスさん(34歳)で、結果として2日間だけの同行となった。
二人ともこの山の麓のマラング村の住人でチャガ族。スワヒリ語と部族語以外に英語も話す。
【LOG in BLOG】05.2.25
前回、このLOG(日記)で図書館のパソコンに「キリマンジャロ」と入力した話しを書きましたが、もし映画博物館のようなものがあり検索をしたら、多分、これが一番に飛び出すだろうという映画があります。「キリマンジャロの決闘」という1959年のアメリカ映画です。
すでにレンタル・ビデオ屋に行っても置いていない映画ですが、21日、神戸のサンテレビで放映されました。ビデオに撮って観たところですが、主演のロバート・テーラーが熱演していますが、結論から言ってB級映画です。でも、全編にわたってアフリカでの屋外撮影で観光映画、いや、サファリ映画といった感じです。登場した動物が12種類。ライオンやアフリカ象は何度も登場します。リカオンやインパラなど、このブログの[33]〜[42]のンゴロンゴロ自然保護区の項にも登場しなかった動物も出ています。背後にキリマンジャロがチラチラと見えるわけですから、アンボセリ国立公園での撮影ではないかと思います。
この映画、ケニアのモンバサからナイロビへの鉄道を建設する技術者の話しですが、それを阻むのが映画の中では「ワルーシュ族」という名になっていたマサイ族。ところが、マサイ族の酋長がロバート・テーラーの男気に惚れて建設者たちの味方となり、最後まで悪役だったのがアラブ人でした。この映画はプロローグでアラブ人が奴隷を虐待する場面も描いています。半世紀ほど前の映画ですが、今日のブッシュ政権を連想する内容になっています。 キリマンジャロ中腹から見下ろしたアンボセリ国立公園
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[63] キリマンジャロの白い頂き(2)
http://yonezawa.exblog.jp/2082662/
2005-02-21T20:52:00+09:00
2006-04-18T16:15:27+09:00
2005-02-21T20:52:16+09:00
yonezawa02
キリマンジャロ峰
発見したのだが、赤道下で雪があるなどとは当時は誰も信じようとしなかった。
初登はんは1889年、ドイツ人マイヤー博士によって行われた。
「キリマンジャロの雪」 鈴木耿子・著 実業之日本社 「1889年と言えば116年前。今年の夏に登った立山は千年以上の歴史だから…」と言いながら、
マラング・ゲートのハンス・マイヤーの記念碑の前に立った。碑はドイツ語、その上に英訳。 朝もやの中、いよいよ出発である。緊張する一瞬である。5名のポーター達は互いの荷物が
重いとか軽いとか、いつまでも比べているので、我々とガイドは先に出発することにした。 ここ、マラング・ゲートは標高1800m。頂上は5895m。果てしなく長い登はんが始まった。 登山道に入ると、いきなりというか、瞬く間に密林に突入する。ほとんど空が見えないほど、 鬱蒼とした大木が我々の行く手を覆っている。でも、ゆるやかで、歩きやすい道ではある。 このような密林に出会うと、我々世代は映画「ターザン」を思う。最近、アニメ版もあるので 若い方もご存じかも知れないが…。船旅をしていた英国貴族一家が嵐に遭い、幼い子供だけが アフリカに漂着する。その男の子がゴリラに育てられ、たくましく成長するという話しである。 モノクロ映画時代の「ターザン」は元水泳選手のワイズ・ミューラーが演じ、密林の中を裸で 走りまわり、象とか、キリンとか、チンパンジーと協力して悪者をやっつけるのである。 でも、この密林では動物の姿をまるで見かけない。小鳥の鳴き声も聴こえない。と思っていたら、 突然、大きな猿と出会った。美しい毛のために乱獲されているアビシニア・コロブスか。
【LOG in BLOG】05.2.21
キリマンジャロ登山の入稿にあたり、神戸市立中央図書館に行って蔵書調べのパソコンに「キリマンジャロ」と書き込んで検索したら、10数冊の本のタイトルが出てきました。うち、ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」の翻訳者や出版社を違えた本が半数ぐらいを占めていたのですが、同じタイトルで日本人が書いたものがあるのにビックリ。この稿の冒頭の文章である。
1958年(昭和33年)9月発行のこの本は日本人としてキリマンジャロ初登頂を記録したものであった。しかも、著者の鈴木耿子さんは日本人女性として初の6000m峰の登山者とある。
この本によるとキリマンジャロは標高が6010mとなっており、現在よりも115mも高いことになる。50年近くも昔の話しだから、山の測量方法も違っていたのだろうか。
神戸港から船に乗って1カ月間かけてケニアのモンバサに上陸。ナイロビ、アルーシャを経て、キボ・ホテルに入り、1958年1月にギルマンズ・ポイント(現行の地図では標高5690m)まで登り、それを登頂としている。その後、アフリカ第二峰のケニア山にも登り、ヨーロッパ経由で帰国。 謎はなぜヘミングウェイと同じタイトルにしたのか? 不明だったが、このような一文があった。
「ヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』を何回か繰り返し読んで、キリマンジャロに対して神秘的でロマンチックな感情を持つようになった。実際に登って現実の山となったのだが、神秘的でロマンチックな感じは消えはしなかったし、心の中で輝きを増していくことだろう。」
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